(サム直)





 白い指を眺める。
頁を捲る、青白く細いが節目の美しい指。時折眼鏡のブリッジを押し上げ、また背表紙を支えるために戻される。
 誰にも解けない数式を解答してみせる際には、すらすらとチョークを黒板に走らせる。そんなときは、陽光が板に反射して、指先もいっそう白く光るのだ。
 繊細な手だ。時折思いも掛けない強引さで人の意志を制止することもある、強い手だ。他者をその片手に本を翳しつつ牽制する際でさえ、傲慢というよりも「らしい」と感じる。

(――護りたい)


護りたい。
其の手を傷つけるすべてのものから。
其の手を害しようとするあらゆる存在から。



……少年は、ふと此方を見る。

「そこまで注視されては僕といえど注意力を散さずにはおれない、君は一体何を見ているんだ」
「―――お前を」

呆れたように吐き出される息に、小さく笑う。

「直を、見ていた」

 




(学園プリズン) 直→サムライ入学前




狂い咲きの桜花が聳える。
季節外れに花咲かせ散り往く。花弁が無骨なコンクリートの道を、淡く色づかせていた。
黒く太い幹に手を添え佇んでいたのは、見知らぬ男ひとり。

 鴉のような闇色の髪だった。無造作に結わえたそれが風に僅かにそよぐ。
袴をはき防具を身につけた姿は、恐らく近場の道場の人間だろうと察しはつく。
 男は黙祷しているようだった。
無遠慮に立ち入るのが躊躇われるほど、静寂の内に清廉な面が、上がる。
 気付いたときには真正面に眼が此方へ寄せられ、鋭利な黒瞳と視線が絡んだ。

――意外に若いな。

 抱いた感想は簡素だが、印象は強烈だった。穏やかさに反する激しさをも内包した、掴みにくい空気を漂わせている。
男はふいと背を向け、歩き出した。追い掛ける程興味を掻き立てられた訳ではないが、奇妙なその存在に引っかかった事があったのも事実だった。桜の傍へ歩を進め、それから男の祈りの意味を知る。
 盛り上がった土の跡。
流石に人ではないだろう。猫か、犬か、何にせよなにものかの亡骸を葬った。遠ざかる男の背を今一度振り返り見送る。桜の下は、弔いの場だったのだ。



花を纏わりつかせた後ろ髪に未練を残してはいなかったが。
無言の背中は哀愁を背負っているようにも、見えた。






(学園プリズン) ロン+レイジ



 雪が降った。
既に春、関東では桜が花を散らし始めているという話も聞く。そんな折に、雪だ。空は薄い青に均一に染められ、触れれば幻の如くに姿を喪う白い結晶が、光を映しながら注ぐ。
 其の日午前授業のみだった学園内では、女子達から「きれい」としきりに声が上がっていた。下校の生徒等が心なしか浮き足立って見える。

「こういうのをTear of angelって言うんだよな」
「……いきなり英語言われてもわかんねーよ。エンジェルって、天使とか?」
「『天使の泪』だよ。マリア曰く、春先に降る雪のことをそう呼ぶんだとさ。くさ過ぎて口説き文句にも使えねえけど、見る分には確かに綺麗だよな。全身に浴びたら天使様の加護貰えるんじゃねえの。試してみろよロン、ほら」
天使って泣くのか、と素朴な疑問を頭のてっぺんに乗せつつ、ロンは胡散臭げにレイジの手を払う。
 ロンは先刻前に追試勧告を受けたばかりだった。成績向上というよりピンチ脱出の加護が受けられるならいくらでもあやかりたい。――が、
「そんなお手軽に望みが叶うなら誰が苦労するんだよ、全身濡れて風邪引くのがオチだろ」 
「そしたら俺がつきっきりで看病してやるよ」
「お前居るとろくな事にならねえから、いらねえ。一人で充分だ」
 突っぱねるのに、レイジは楽しげに笑う。懲りない奴。ロンはそっと心中に呟くが、それでもレイジの事は嫌いではなかった。
 嫌いじゃない。別にだからって好きって訳じゃない、決して。言い訳のような呟きは外気に触れさせる前にいつも、喉の奥に飲み下してしまう。
 

 ただそれでも、天使も女神様も奇蹟も知らない学園の毎日、確かに横に居るのは、この横暴で笑い上戸な王様だ。
 ロンは泪の緩いシャワーを額に感じながら、少しの間瞼を閉じてみる。
 何処かが触れているわけでもないのにすぐ隣にレイジがいる事に、馬鹿みたいにいつも気付かされるのは、いつもこの一瞬、なのだ。





(学園プリズン) サム直バレンタイン



 騒々しい事この上ない。
読書に集中出来ない、という理由で直の機嫌は斜め下へ順調に降り続けていた。何処かしらから漂う、特有の甘い匂い。商業戦略に乗せられたイベント事に、一喜一憂している学生達は平和そのものだ。
 直も女子から渡されそうになる場面が多々あったが、すっぱり拒否してしまっていた。元々甘いものは好きではない。チョコレートを貰うのは妹からだけで充分だったのだ。



「……サムライ?」
 廊下の隅で疲れたように立ち尽くすサムライの姿を見止めたのは、直が教室に戻る間際だった。サムライも直に気付いた様子で、傍へと近付いてくる。手に持っているのは、赤い包装紙に緑のリボンがあしらわれた箱含め、何種かの箱が覗く紙袋。
 女子から受け取ったらしい。サムライも華々しいレイジに比べれば控えめだが、剣道部主将という立ち居地からか割合女子の話題に上りやすい男ではあった。

 サムライは溜息をつき、眉間に皺を寄せている。
「直、米国には如月に猪口を贈り合う習慣でもあるのか」
「……前に解説したように思うがバレンタインデーだ。正確には聖人バレンタインが処刑された日から転じ祝日として異性に愛の告白や贈り物をする習慣がある。日本は菓子メーカーの戦略でチョコを贈るのが流行しただけの話だ」
「猪口など大量に貰っても使い処がないと断ったのだが、押し切られた。女子は分からん」
 心底参った、という風情の疲弊した顔つき。
待て、と直は訝る。使い処?

「……君はまさか『チョコ』を、酒を飲み交わす際に用いる底のすぼまった陶器と勘違いしているんじゃないだろうな」
「…………………………………違うのか?」


 直は呆れ返って言葉もなかった。
帯刀家の時代錯誤は尊敬に値する。未成年で飲酒をしている時点で問題だが。
 直が早口でチョコレートの形状・由来・歴史を捲くし立てると、サムライは渋面のまま「…漸く合点がいった」としみじみ呟いた。


「君のような無知の過ぎる人間には説明に時を浪費するより実物を見た方が脳内処理も早いだろう。…これが、チョコだ」

 直は右ポケットから、一粒チョコを取り出し、サムライに突きつける。
――無論、学生服の右ポケットに収まっていた小さなチョコは、直の望んだものではない。偶々食堂で配られていたのを、突き返す間がなかっただけだ。
 サムライは受け取ると、立法形のそれを眺め回し、包み紙を剥がして口に含む。

「……だだ甘、だな…」
 洋菓子の甘味は余り気に入らなかったらしい。バレンタイン用のチョコレートが甘いのは一般的なことであったので、直も取り立てて詳細は述べなかった。
「受け取った分の多量のチョコを完食は薦めない、糖尿病になりたいなら別だが」
「……俺はお前から貰ったこれだけで充分だ」

 何処かげんなりした調子のサムライに、それでも律儀に食べるのがこの男だろうと、直は思った。
 ――結局、サムライがチョコレートを受け取った事実に腹を立てていた事に直自身が気付くことはない。
サムライが初めて食べたチョコが、奇しくも直が手渡したチョコだという事実にもまた。


男女各々思惑は入り乱れ、甘い匂いの溢れるバレンタインデーはなお続く。





(学園プリズン) バレンタインおまけ



「……なあ鍵屋崎、その片手に持ってるもんなに」
「無粋な男からの返礼だ」
「返礼って…お前サムライにチョコやったのか!?」
「正しくは試食用だ。僕が彼にチョコレートが如何なる物質かを示す為にカカオ豆を炒り砂糖カカオバター粉乳を加えて作る菓子製品を手渡したとしても、別段バレンタインデーという商業戦略に載せられた日に特別な意味を求めたものじゃない」
「…俺、ちょっとサムライに同情したくなってきた」
「ロン、想像は勝手だが恐らくいや十中八九だな、サムライはホワイトデーの意味を理解していないぞ」
「でも理解してないって、そうじゃなきゃ何でまた返礼なんて――いや、そうか。仮に理解しててこれが謝礼だったら、女に滅多切りに遭うよな…」


鍵屋崎の手にあるのは申し訳程度の薄紙に包まれた、かの「踊る○○君」というフレーズで歌にもタイトルに使用されている、餡子の詰まった魚型のアレである。

不本意そうに、けれど豪快に目玉のある位置から食しつつ、鍵屋崎は半眼で呟いた。


「……此方の方が余程甘いぞ、サムライ」






「つまり…」
「うん。その、えっと……バレンタイン貰ったのを、御礼する日、だよ。クッキーとかキャラメルとか…お菓子をプレゼントしたりして、」
「――成程、得心がいった。リュウホウ、感謝する」
「え、あ、ででででも、まっ…!…………いっちゃった…大丈夫かな。本命の子には分けて渡さないと、誤解…」



後日、不機嫌そうな直と、その後ろを必死についていく貢の姿が見られたとか、どうとか。




(学園プリズン) サム直




 眩暈のするような猛暑、汗が首筋をうっすらと濡らす。

 清涼さを求めても与えられるのは冬場の空調から流れるような、不快度指数を上げるだけの生温いを通り越した熱風。元々の日程に組み込まれていたとはいえ、運動行為にこれ以上なく不適格な時節に、陸上競技大会の開催を決行した学校側の理性を疑う。
 ……欠席してもよかった。
 つくづく思う。そうすれば自宅の設備の行き届いた書斎で、思う存分に読書を堪能出来たのだ。叶わなかったのは、――というよりもそうしなかったのは、競技大会があるらしいと何処かで聞き付けたらしい妹の恵が、健気にも早起きをし手製の弁当を用意してくれていたからだった。
 味付けは塩のみのおむすび二個に、目玉焼きとウインナー。特に蛸の形に切り開かれたウインナーは芸術的と言ってもいい出来で、どんなディナーよりも美味しかった。将来恵は一流のシェフになれるだろう。世界的に名高い三ツ星レストランの経営に携わって腕を振るうのも夢じゃない。

 恵の弁当を見たサムライが、一瞬奇妙な形に面を歪めたが、妹の手製であることを滔々と説明するとそれは笑顔に変わった。彼の笑顔は、非常に希少であるので興味深かったことは確かだ。他意は、ない。


「……直、集合だ」
 どうする、と腕組みをしたサムライが此方を伺うように見ている。
 50m走出場者が集合するようにアナウンスが掛かっている。クラスで適当に割り振られた種目が短距離走だったのは、普段から体育関連にはほぼ休みを決め込んでいたのを考慮されてのことらしい。出場自体を避けたいと考えていたのは確かなことだったが、しかし――

「出ない訳には行かないだろう。恵が声援をくれたんだ」
 恵の言葉を、手作りの朝の賜物を、無下には出来ない。
立ち上がると、サムライはもう一度、ちらりと笑みを見せた。穏やかな、見守る眼差しで。








あ り が と う !