不快な夢は幾度にも渡る。
眼を閉じようが開こうが脳裏に広がる光景は同じだ。暗い室内、押し倒されまさぐられる。指が這い、生臭い息が吹き掛けられる。もう当分は戻らなくていい場所を未だに怖れ、引き摺り続ける己の精神の軟弱さに直は怒りすら覚える。逃げ延びたいと望みそれに向けてレイジやサムライを戦わせている現実を差し置き、悪夢は飽きもせずに追い駆けてくる――
無様な姿をサムライに見られたくない。直の願いはサムライの配慮によって実現されていた。うわごとも悲鳴も、知らぬふりをして直のプライドを傷つけまいとする男。
だが其の日、其の日ばかりは、どれほど彼が素知らぬ振りをしようと誤魔化しきれない状況だった。
直が己の悲鳴で覚醒し、また感じた浮遊感。夢の中で伸ばされる数多の手を振り払おうともがくままに、狭いベッドから落ちかけたのだ。
数秒満たない落下。
パイプに頭をぶつける寸でのところで、直を庇うように抱き留められる感触。
眼鏡のないぼやけた視界にも分かった、今自分はサムライの腕の中にいるのだと。床に激突するのを避けるために、滑り込んだ男の体温を直はじかに感じた。
自分を包む腕にひどく安堵をするが、そんな自身を同時に激しく嫌悪する。当然のことのように何度も何度もサムライに護られて、――挙句がこんな。
無様。なんて、無様だ。
瞬間的に沸騰する、激情の矛先は自分自身。取り繕う言葉を捲くし立てる余裕さえ剥がれ落ちそうになる。身を強張らせ、礼どころかいますぐ放せ触れるなと暴言まで吐き出しそうにまで、寸前まで見ていた夢の効果もあって追い詰められた直の精神を宥めたのは。
「直」
凛とした声色はけれど深く、情愛に満ちている。切羽詰ったものとは違い、聞く者の心を労わるような穏やかな声だった。噛み締めてよく聴かせるように、ことさらゆっくりと紡がれる言葉。
「俺は、此処だ。……いつ何時も、お前の傍らにある」
「サムライ」
「――信じていろ」
直は目を閉じた。
嵐のように吹き荒れた感情の高ぶりが、与えられたたった二言のみの約束事に沈静化してゆく。夢の残滓が、纏わりついて離れなかった誰かの手が、思考から解けるように消えた。
息を吐き出し、直は落ち着いた心を確かめるように、敢えて反論する。
「……僕を低く見積もるな。僕は天才だぞ、何月も行動を共にしているというのに君の強さを測れない訳がないだろう。君の実力は脳の無い力自慢を相手に立ち回るには十二分だ、加えて東棟の王のレイジもいる」
サムライの囚人服の端を握り締め、吐き出した。
「信じているとも」
「――ならば、いい」
サムライが、微笑った気配がした。途端に現状に気恥ずかしさを覚え、大丈夫だから解放してくれと要求すると、あっさりと腕を解かれる。立ち上がった直は、サムライの身を起こし早口に続けた。――心拍早い心中を、悟られないように。
「明日はペア戦だろう。寝不足で元来の実力が発揮できない事態に陥る愚を君が犯すとは思わないが、早急にベッドに入ることを推奨する」
「心得ている」
頷いたサムライが己の寝台に戻っていくのを見、直も再びベッドの上に横たわった。きっと今日はもう夢を見ない、予感があった。
喪われたわけではないけれど。
眠ればまた生きるための朝が来ることも、直はサムライに会って初めて知ったのだ。
傍 ら に
悲鳴を聞く。彼が跳ね起きる。直は、黙り込んで眠るふりを続ける。
彼が魘されていることを知ってから、直が定めた己の定規。土足で踏み入る真似だけはしてはならないと、どうしようもできない自分に歯噛みしながら決めたことだった。
荒い息がやみ、彼がまた寝台に身を倒すのが分かる。
半端な慰めも赦しも、彼にとっては何の意味もないと知っている。だから、何をも言えはしないけれど。
……ひとつ、自分に出来ることがあるとすれば。
(此処にいる)
シーツを握って、直は必死に――かつて寄越された言葉を、思うのだ。
(僕は此処だ。いつだってサムライ、君の傍にいる)
それは願いで、直自身の、固く固く掌に握りこんだ誓いだった。