澄んだ鋏の音が鳴る。
しゃきん。
敷かれた紙の上に積もる黒髪。レイジは鼻歌交じりに手を動かしていく。資格持ち云々の話は疑わしいが、どうやら整髪に関して経験があるのは嘘ではなさそうだと、サムライは黙り込んだ胸の内に思った。
走らせる鋏の刃の先にまるで迷いがない。空気まで優雅に切り裂いてみせるように、軽やかに進行する時間。
直はまだ隣接のベッドで眠っている。
『不要だ。厚意は受け取るがお前に整髪まで頼もうとは思わん』
余りの突飛な提案に反応の出遅れたサムライが、どうやら本気らしいレイジにそうすげなく断りを入れた数分前。レイジの応答は疾うにそんなサムライの応えを見越していた様子で、笑みを含みながら有無を言わせなかった。
『そういうなよ、東棟の王様が出向いて散髪なんて、ロンと女以外にゃ万に一つの気まぐれだぜ?腕は確かなんだから信用しろよ。それに――』
意味ありげに直の寝顔を一瞥し。
『キーストアは傷心のお前を気遣っていつもの毒舌を控えてたのかもしれねえけど、普段なら真っ先に半端な髪型が見苦しいって指摘してるだろうよ。大体そんな焦げ跡だらけの目玉焼きみたいな髪じゃ、今にも死闘してきたって主張して歩いてるようなもんだ。自覚しろよ、サムライ』
レイジの片目の思いもかけない意思の強さに、サムライは漸くその意味を飲み込む。
―――引き摺るな、歩けと。王は王ならではのその不遜さで以って、同時に護る者を持つ人間として忠告しているのだと。
直を、護ると決めたのなら。
静かに瞑目し、サムライが『わかった』と素直にレイジの言を受け入れたのは、そういう経緯があってのことだった。
……が。
これは乗せられたのではないだろうかと、冷静になった頭で振り返るサムライの疑念を他所に、レイジは何処までも楽しげだった。時折思いついたように口ずさむメロディーは覚えのない異国のものだが、破壊的に音程がずれている為に耳に優しい歌声とは言い辛い。
レイジの指が項にかかった余分な髪を掬いあげ、綺麗に食み出た部位を切り落としてゆく。首にも幾らか残る火傷には、気を使っているらしく触れないようにして。
長いようで短いほんの数分間。
耳傍まできっちりとカットを終えたレイジが、「完成」と呟き、得意げに口笛を吹いたのを受けて、サムライは鏡代わりに窓に眼をやった。映り出たサムライの姿は確かに、落ち武者の様だった酷い髪型からは一転して、すっきりとしている。
入院中なこともあって不精の髭は相変わらずだが、髪型ひとつで随分と印象は変わるものだ。レイジが「五年は見た目若がえったんじゃねーのみっちゃん」と、しげしげと興味深そうな視線を向ける。サムライも、此処までされてはレイジの言質の正しさを認めざるを得なかった。
サムライは自分の姿を見、そこに何処か見覚えのある記憶を呼び起こした。……そういえば静流の髪型もこんな風だった、と。中性的な面持ちが硝子窓を透過して歪み映るような錯覚をする。
「知ってるか?女は失恋すると長い髪を切って、新しくやり直す踏み台にするって話」
「……奇態な風習が多いな。出家か?」
「いや違うだろ。日本の古典事情は詳しくねえけど、流石にそれが違うくらいは分かるぜ俺も。……どういうところから始まった話なんだかな。髪切って、生まれ変わった気分で新しいスタートきるって証明にでもしたいのかもな」
「――誓い、か」
サムライがうわ言のように漏らした言葉を、レイジはよく聞いていた。意外に整った面立ちが見える黒瞳に視点を合わせ、古風な台詞だとやはり笑って。パイプ椅子から立ち上がり、鋏をくるくると回し弄びながら言う。
「……じゃ、ロン言伝の任務達成したところで、一旦帰るわ。キーストアもこの分じゃ起きそうにねえし、ロンがイエローワークから戻ったらまた来るよ。後始末は出来るだろ」
「ああ。…手間をとらせた」
感謝する、という言葉を遮りひらひらと手を振って、レイジが部屋を出て行く。廊下に姿を消す寸前、サムライは一つ問うていた。それは何処か、衝動に似た行動だった。
「レイジ、お前は誓ったのか。その髪を切り落とした日に」
瞬時の静止。
回っていた鋏を何時の間にか握り締め、レイジが面をサムライに向けた。それから、言葉では表現出来ない極上の笑顔が浮かんだ。酷く幸せそうに、幸せであるからこその強さを携え、故に脆さすら抱え込んだレイジの貌。
『I swear to defend the person who I love.』
ぱたん、と医務室の戸が閉ざされる。早口の上異国語で意味は取れなかったが、不思議とその響きに篭められた想いがサムライには分かるような気がした。
静まり返った室内で、切り落とされた髪を握る。断髪式、古来侍は己の身分を解く際には、髷を落として戦う者としての自身を捨てた。
だがサムライは、違う。サムライはサムライであらなければならない。他の誰でもなく直のためのサムライであり続けなければならない。
眠る直の顔をいとおしく想いながら、サムライは窓に映りこんだ静流の残像を真正面から見据えた。
逃げはしないと己が心に定めを突き立てた。
もう決めたのだ。決して迷わないことを、決めたのだから。
「……誓うとも。俺は、直を護る」
短髪の侍は噛み締めるようにそう言い、瞼の裏に直の姿を焼き付けた。
誓 い と て