紅梅の匂いが沈み込むようにひっそりと、庭の一角を満たしていた。
屋敷からも外れた隅に、蹲って泣く子どもが、ひとり。
(ああ、あれは僕だ)
一軒家の囲いとは思えぬほどの広遠な、帯刀の敷地。土を盛り上がらせた太い木の根に不注意で躓いて、転んだ拍子に膝を強く擦り剥いて。血がみるみる滲んでゆくのを目の当たりにして、堪えきれずにしゃくりあげて泣いた。
優しい姉が居ればきっと、心配をかけまいと精一杯に唇を結んで我慢をしようとしただろうけれど、其処には誰も居なかったから。痛みと情けなさで、ぼろぼろと零れるものを止めることができなかったのだ。
けれども、そんなときに頭に置かれた大きな手。
不意に。とても、優しく。
「――泣くな」
涙で歪んだ視界に映り込む、自分よりもずっと背の高かった少年の姿。堅い表情の中にも気遣わしげな色があり、掛ける言葉は不器用ではあれど、酷く真摯だった。
「……立てるか、しずる」
「はなお、が」
べたべたの手で眼をごしごしと擦る。少年はそっと屈んで、下駄の具合を確かめるように眺めると、切れてしまった鼻緒をそっと撫でた。
「これでは無理だな。――玄関先まで送る。負ぶされ」
「え…」
差し出されたのは、少年の背中。大き過ぎてとても追いつくことのできない、逞しく正しい背筋。
言われるがままに少年の首に手を回して、体重をかける。特に苦にする様子もなく、彼はゆっくりと立ち上がった。景色が持ち上がり、梅の香りが一層きつく鼻腔を掠めた。
庭園を渡り、柔らかな日差しに眼を細める。少年の歩みは静かで振動もなく、背負われているうちに眠気が襲う。
光が眩暈のように。
そう、こんなに優しい日も、かつて、は……。
暗闇のなか、肌寒さに目覚めた。
もうじき夜明けだろうか、闇にしても薄い。
うすら寒いと思ったけれど、何も着ていなければ当然だ、ただでさえ房には暖を取れるようなものが何もない。脱ぎ捨てた囚人服と共に、薄い毛布はベッドの下にずり落ちてしまっていた。
ふと、自分が布団代わりに下敷きにしていた男を覗き込み、酷薄に笑む。
彼は――死んだように眠っていた。無理強いに被った体力と精神の著しい磨耗のためだろうか、寝息ひとつ立てず、厳しい面持ちで。騙されていたことに漸く気付いて、馬鹿のように御人好しの彼には天地が返った様な衝撃だろう。
閉ざされた瞼、かたくかたく。
騙りを働いた相手を、拒むように。
夢の彼の姿が蘇った。弱者に差し伸べられたあの手、あの背。感傷のわけはない、自分はずっと彼を憎んできたのだから。
あの夢は只の最終通告。
(――そう、それでいいよ。貢くん)
微笑んで頬に手を伸ばす。このまま首を絞めて殺すこともできる、けれどそれでは駄目だ。地獄の火を見せなければ、真の絶望に身を自ずから焦がす如くの闇を。
「一緒に堕としてあげる」
呪いの響きは睦言を交えた者が投げやるように、あまやかな声色に満ちる。