鼓動の音。
 重なるように、定間隔に刻まれる二つの音。それが鼓膜を通してじゃない、その響きを直接、俺の肌が、内蔵している心臓が感じ取っているのだ。
それで安心している。母親に抱かれて、外界がどんな危険地帯かも知らずにすやすや健やかな眠りを享受している赤子みたいに。と言っても実物を見たことはなかったから、これは彼の単なる比喩表現に過ぎなかった。恐らく、こんな感覚だったのだろうという、それだけの思いに過ぎなかったが。
 安心していた。馬鹿みたいに。


 三村信史は眼を覚まして、仰向けに値転がった姿のまま、己が膝枕をさせていたその男を見た。
 濃い陰に呑み込まれている。
背筋をぴんと張った男が、手にしていた文庫本から視線を逸らして、三村を穏やかに見下ろしていた。
「起きたのか」
 ちょっと困ったような、それでも責める調子ではなくて、あくまで確認を取るために発された言葉だ。
「杉村」
 整髪料も使用していないのだろう、混じり気のない黒髪が夕陽を浴びていた。
三村は視線を巡らせた。屋上だ。硬い石の感触を背骨に受けていた。
 何でこんな体勢になってるんだっけか、と三村はまず思い、考えるより聞くが早いとそれを問い質した。杉村は、呆れたような眼差しを落とした。
「お前が、眠いから枕になれって言い出したんだ」
「そうだったか?」
「ああ。断っても断ってもしつこく粘ってくるから、時間制限付きを条件に俺が折れたんだ。鼾でもかいて読書の邪魔になるようなら、遠慮なく振り落とすつもりだったけどな」
そう言う杉村の、不機嫌なわけではないらしい和やかな口調に、三村は思わず笑った。
 そんな風に膝枕をする事が本意でなかったと口にしながら、三村がすっかり寝息を立て始めれば、時間オーバーをしても起こさずにおいたその男のお人好しぶりが可笑しかったのだった。
「目が覚めたんなら退けよ、三村。膝が重い」
 目覚めた途端にドライな切り替えしだ。さっきは、あれほど優しい眼をしていたくせに。
杉村は、人を甘やかすのも、それを取り払うのも、三村からすれば抜群に上手い印象がある。本人は、そんなことはない、と否定するのだろうが。しかもそれは意図して行われているのではない、杉村のそれはまったく無意識の産物だった。その恣意のなさがまた、三村には、――くさいことを云うようだが、尊いものであるような認識がなされていた。
 それは彼が瀬戸豊のコメディアンぶりに価値を見出すのと、七原秋也の一種向こう見ずと紙一重の勇敢さに敬意を表するのと、近しい想いではあったが、全く同じというわけでもなかった。

「そういや、稽古はよかったのか」
「今日は師範の都合で休みなんだ。……そうじゃなきゃ、いつまでもお前を寝かせておいたりしない」
「そりゃそうか」
 欠伸を噛み殺す。三村に、杉村はごく控えめに問い掛けた。
「……よく、眠れたか」


『よく寝たか、信史』


 ――その日三村の調子が今一つであったのは、昨晩何故だか寝付けずにいたことに端を発していたが、彼にとっての愛する親族の死を思い出したために、色々と思うところがあった為かもしれない。三村にその自覚はなかった。ただ、杉村は、その些細なところに気付いていた。それはなにがしかの根拠に基づいたものというわけではなくて、こいつは此の時期になると「らしく」なくなる、という直感めいたものではあったけれども。
 ああ、と三村は思った。

『眠りっていうのは必要な機能だ。どんな悪条件下でもな。それは生きるためのタフさに繋がる。起き続けなきゃならない時のために、そうでないときには眠ることも肝要なんだ』
三村は、その人の傍でなら、恐れることは何もなかった。彼がその鼓動を奪われてしまう前までは。

安らかな眠り。何に怯えることもなく、夢も見なかった。安心仕切っていた。それがいいことか悪いことかは別にして。 

三村は、愉快そうに唇をつり上げた。それは彼の常の笑みだった。

「そのまま天国にトリップ出来そうなくらい熟睡したさ。お前の膝、安眠効果あるぜ。いいお袋さんの膝って感じだな」
「なんだ、それ」
「褒めてるのさ」

三村は杉村の肩に軽くタッチすると、「一緒に帰ろうぜ」と誘いをかけた。杉村も同じように考えていたらしい、三村の態度はひとまず置くことにして、小さく頷いた。


三村は、先行する杉村の背を見据える。笑いが込み上げた。いやはや、なんていうジョークだ。だけどこれは、どうしようもないらしい。


叔父さん。多分、俺は、そういうことなんだ。
口唇に上らせることのなかった言葉は、三村の胸に仕舞い込まれた。





自 覚 症 状