――今晩は、星が綺麗でしょうね。澄んだ空気だ」
「ああ。いつもは見えないような星もよく見えるぜ」

応じると、彗星を初めて捕らえた少年がやるように、嬉しげに手を広げた古泉が笑った。
パジャマにごつい上着を引っ掛けただけ、草葉に古ぼけた茶色のサンダルを履いた古泉の出で立ちは、いつも優等生面をした男が庶民臭い格好をしても様になることを立証しちまい、俺としては少々残念さは拭えない。貧乏臭さがアップしていたり、余りに可笑しなミスマッチだったら指を差して笑ってやろうと思っていたのだが。
まあ、突貫準備にしては、よく用意出来たというべきだろう。
俺はさりげなく横に立ち、こいつが調子に乗って駆け出したりして引っくり返らないように、精々見張っておくことにした。

仰いだ紺の空には、無数の光の粒。電線も引かれていない、天体観測には絶好のスポットだった。持ち合わせは肉眼だけで、オペラグラスも望遠鏡もないが、古泉に言わせるとそれでも立派な天体観測であるということらしい。

「この時節に見られる星座なら、小犬座……ですかね。血生臭さの残る逸話がありますよ。テーバイ王カドモスの孫、アクタイオンの猟犬が――
「悪いが星座には詳しくないから、小犬座がどれかは分からんな。あと無駄な薀蓄は聞かんぞ」
今日は時間制限付だ、と念を押すと、古泉がやんわりと笑みを緩める。困ったような、甘えたがりの子供のような、素直な感情の溢れた笑みだ。夜出掛けたい、といきなり言い出した時も、こいつはこんな弱った顔をしていた。
それで俺はとうとう断り切れなかったのだ。お人よしにも程があるな、俺。
許可が降りる訳がなかったので窓から抜け出したが、見つかったら反省の正座じゃ済まないだろう。下手をすると鉄拳が飛んでくるかもしれん。共犯は共犯だが言いだしっぺがどちらかは言い訳の材料にさせて貰うとしよう。

それからは他愛もない話をつらつらと重ねただけで、古泉は夜気を吸うことに執心していた。外の空気がそんなに美味いものかと思うが、長い間箱詰めみたいな生活を送っていたから、不自由な思いもあったのだろう。
ふと気付いて腕時計を見遣ると、此処に足を運んでから既に一時間近く経っていた。こりゃあ、後が怖いな。ひょっとすると大騒ぎになっているかもしれん。一応書置きはしておいたが、携帯も纏めて置いてきちまったから連絡も取れない。

「おい、そろそろだ。帰るぞ。これ以上お前を此処に置いといたら、森さんに笑顔でしばき倒されそうだ」
「いやあ、それで済めば安いものですよ」
「おい」
冗談でも恐ろしいことをさらっと口にするな!俺の恨みがましい視線を感じたのかどうか、古泉はやれやれと首を振る。俺の気のせいではないだろう、あからさまに名残惜しそうだ。

「もうタイムリミットとは、楽しい時程早く過ぎるというのは真理ですね。……残念です、あなたに星の魅力について詳細をお聞き頂く滅多にないチャンスだったのですが」
「……お前、もしかしてそのためだけに俺に連れ出させたのか?」
「さて、どうでしょう。楽しい散歩だったので、少なくとも、僕は満足なのですが」

しれっと余裕のある素振りで言って見せて。それでも、傾ぐ身を抱き締めると男は微かに震えた。
「……お手を煩わせてしまって、すみません」


こういう時だけ殊勝にならんでもいい、調子が狂う。言えれば良かった。いつものように。
俺は撫で付けてあった亜麻色の髪が、風に煽られてさらさらと、流れるのを見る。銀色の光が尾を引いて、星が落ちる姿を眼にしたような気がした。

「流れ星が、降ればいいのに」
呟いて、男は視界に映らない天をひとたび仰ぐ。
眼を包帯で覆ったまま、震えを笑って誤魔化そうとする古泉の横顔は、哀しく綺麗だった。