夜明けの訪れをいつまでも待っていた。
さしたる意味を求めていたわけでもなかったのに。
「っ……すまないが、中尉……少し、降ろして、」
「黙ってて、ください……!」
腕が軋んだ。骨が歪む音かと疑うほど。
部下の一喝に、負傷者は苦しげに息を吐き出して、苦笑した――――ように聞こえた。ホークアイは聞かなかったふりをした。全てが最低ラインでぎりぎり保たれていることなど、誰に説明されるまでもなく彼女自身が分かり切っていた。
腹から血を流し続ける男が、放っておけば近いうちに死ぬことも。男を背負い歩いて既に過ぎた一日に、意識が朦朧としているのに、自分が体力の限界を通り越していることも、まだキャンプに辿り付くには時間がかかることも、何もかも。分かっていて彼女は、逃げる路だけは、選べなかった。
極簡単な応急処置しか施していない男を担ぎ上げて、夜の砂漠を、いつ敵襲があるかも分からぬ孤独な闇夜の地を、ホークアイは這っていた。爪は疾うに、凝り固まって黒ずんだ血でぼろぼろだった。ロイは時折、ふらりと眼を覚まして、私は大丈夫だから置いていけと、負傷の痛みに喘ぎながら懇願するように言いながら、やはり気絶する。そのたびに心臓が止まってはいないかと、恐怖と戦いながらホークアイは進むしかないのだ。
敵兵に刺された腹部から、大量の出血をしたことによって青褪めた唇から、呼気以外のものが漏れなくなってから久しく。死ねば楽になると思っていながら、それでも友との約束によって死ぬのにいつも失敗する男は、自分から諦めるなどという選択肢を持たない。
(死なせない)
死なせない絶対に。囈のように心の中で何度も何度も唱えながら、ホークアイは必死だった。
彼は望んだわけではない。死ぬことを。
ならば自分は、自分は絶対に、諦めるわけにはいかなかった。
明かりの頼みは月と星のみという背景で、ホークアイは歯を食い縛り男を連れて、救護班のいるキャンプを目指しながら――――陽が昇ればまた世界は灼熱の砂漠に戻るだけと知りながら、それでも待ち望んでいた。
ただ、生き長らえ男が助かる未来の存在を、信じるために。
夜明けを。
終戦の日に、砂漠には火柱が昇った。
「――――風が強いな、今日は」
気紛れのように吹き付ける冷涼な砂漠の風に、闇夜に佇むホークアイはコートを羽織り直して、投げ掛けられた言葉に「そうですね」と同意した。
額を叩く、髪が流される。服務時間を過ぎた上官への同行は、他の誰でもないホークアイ自身が望んだことだった。
砂埃に頓着する素振りもなく、寒風に震える様もなく、地に腰を据えて男は彼方を見ている。男の眠たげな漆黒の眼差しをちらちらと浮かび上がらせて揺れているのは、まるで宙に舞っているようにも映る、ぼんやりとした真紅の灯火だった。どれだけの疾風に晒されても、その光のゆらめきは損なわれることなく、鮮やかさを保っている。
単純に明かりの代わりとしてか、それとも久方ぶりに訪れた戦地に捧ぐための、些細な弔意か。ホークアイは敢えて訊ねはしなかった。黙して付き従うのが自分の役目だ、今も昔も恐らくは変わない。
「……中尉、さっきも言ったが」
不意に、男が視線を付き従う部下へと向ける。やはり、今にも落ちそうな瞼は意識を失う直前の兆候。やや力ない声音は、気力も体力も落ちている証だった。相次いで中央から寄越された仕事を終えたばかりで、山のような事務を持ち帰り疲労も溜め込みながら、今日この日にだけは毎年、何があろうともロイ・マスタングはイシュヴァールへとやって来る。
同伴に副官を連れるのも夜明けまでを其処で過ごすのも恒例のことだというのに、今更何を言うのかと、ホークアイは眉根を寄せる。男の感情を見せない淡々とした声は、風に紛れて聞き取り辛かった。
「もう時間も遅い。明日の軍務にも差し支えるだろう?君まで私に付き合う必要は―――」
「迷惑だと仰るなら、戻りますが」
(もう六年なんですよ)
他の誰にも譲らずに、運転席に座るホークアイの心情等、とうの昔に気付いているだろうに。
それ以上の何をも決して言わせはしない、彼は酷く狡い男だった。
昔も今も。
「……いや。―――いい」
『すまない』と、隠された謝罪の声を聞いた気がして、ホークアイは黙り込む。
ホークアイは昔、夜明けに光を見た。それは彼女にとっては、少なくとも、闇夜の砂漠を渡った後に彼女たちの指針を導いた希望の光だった。あの最悪の状況下から帰還することが叶ったのは僥倖としか言う他なく。男が瀕死から一命を取り留めた報せを受けたとき、ホークアイはやっと、果てのない迷路から抜け出すことができたような気がしたのだ。
けれど、彼はどうなのだろう。かつてを振り返り彼方を見据え、時折痛ましい貌を晒す男は。
あのとき数多葬られた亡者たちのように、まだ、血染めの砂漠の過去を彷徨ってでもいるというのか。
(貴方はいつ、抜け出すことができるんですか)
夢を果たしたときか、友の仇を討ち終えたときか。それともその生が尽きる瞬間にか。
辛苦を断ち切り願いを頼りに苦境に体当たりして。
頂点に立ち何もかもを手に入れて、悪夢から取り払われる日が来るのだとしても。
其処に至るまでに恐らくは、負い続けるだろう楔の重責と、年月。
『君の意思で、私を護ってくれるんだろう?―――なら、約束は不要だ』
ホークアイは男の背中を見つめながら、唇を噛み締めた。
例え何を全うすることが叶ったとして。
必ず訪れるだろう暁をいくら信じていても、どうしたってそんなのは長過ぎる。