氷 漬 け の 蝉




冷たい。冷たい。
血の気というもののない薄青い手は、布団からはみ出て、いっそ氷細工のような冷たさだ。
雪女にかどわかされ、抱き込まれた者を連想した。呼吸はあるのか、脈拍は。確かめるために当てた耳に微かな振動を感じることができたとき、俺は心底ほっとした。こんなことに一々心臓を脅かされては堪らないと思うのだが、しかし、古泉の寝顔はまるで死人のそれだった。
もっと分かり易く寝ろ、紛らわしい。
八つ当たりに蹴飛ばして起こしてやろうかとも思い、閉鎖空間処理の帰りで疲労困憊の上でベッドに倒れこんだのだろう男のことを思うとやはりそれも憚られ、俺は結局思い付きを持て余したままで古泉を見下ろした。

いつも微笑みを絶やさずのイエスマン。暮らしている住居はどんなもんか、家族構成は、生活環境は。興味を惹かれたのもあって、「泊まって行きませんか」という誘いに乗ったのが、間違いだった。

(なんでこんなことになった)
爪をベッドの金属の縁に擦り付けた跡が、残っている。千切れかけて、ぼろぼろのシーツ。引っ掻いて糸ごと解れさせていったんだろう。どれだけの間こうやって死ぬように眠り続けてきたのか、目の当たりにして初めて俺はこいつがわからなくなった。

(お前、生きてるのか)

こべりついた問い掛けを、今すぐ起きて笑って薙ぎ払ってみてくれよ、古泉。
間近にあって見えないものなんか、知りたくはなかった。 







氷 漬 け の 鳥
 

※古泉→ハルヒ



黒一色にぽつぽつと浮かぶネオンの明かりに接近していくのにつれて、自分が落下していることを悟る。風を切る音。咽喉仏を撫でるどころか、刻むように突き刺さる冷たさ。体温がどんどん、中に流れている血のめぐりごと衰えて低下していくのが分かる。地面に叩きつけられるより前に凍死するのが先なような気がした。
なにしろ、寒すぎて痛いのだ。鼻梁も、耳の裏も、足の付け根も。


羽が冷凍保存された天使は、翼が動かないことを知っていても、空に向けて地を蹴るのだろうか。
飛べない鳥の意義を考えてみると、それは自殺行為というより自然の摂理に従った故の、淘汰かもしれない。飛べないものは鳥ではなく、捕食されるだけのものであり、弱者である。弱者は消え行くのだ。それも神様が創った世の定理で、人も鳥も天使も平等に従わなければならない。

けれど、――けれどだ。
黒に吸い込まれていく僕の身体がこれからどうなるのかを僕は知っている。赤い光が熱を発しながら僕を護る、限定的でひどくつまらない、それでも生身のごく普通の人からすれば奇蹟のような力だ。「彼女」にそれを与えられてしまった僕は、何度凍りついても自然とその身を溶かされる。戦いに赴くために、飛翔する術を持たされている。

彼女は、きっと神ではない。
僕を冷やして固めて、他の動物とは不平等に溶かしてしまう彼女は、僕の神様ではない。





光が見渡せる位置を突き抜けて、落下を続けると、高層ビルに挟まれて電灯の届かない闇に放り込まれた。咄嗟に身を竦める。迸るテールランプのような赤い光に呑み込まれる。
羽が氷を水にしてしまうこのときに、僕はいつも、愛し過ぎて気が狂いそうになる。このあたたかさが、神になりきれない娘の生み出した救世の灯だ。寒さを哀れんだ彼女の慈悲だ。

世界が好きだ。殉教してしまいたくなるほどに。

僕は眼を瞑って、それから、微笑んだ。神の人の雄叫びが耳に轟く。

――狩りの始まりだ。







氷 漬 け の 花




冬の間、花は蕾を護っている。花開けば凍えて儚く散るのが定めだから。
ひたすら、春を待っているのだ。




口にすればハルヒが、ハルヒの。機関というのは「機関員の機関員による涼宮ハルヒのための」組織だということは耳にたこが出来るくらい聞かされたが、それでも限度というものがある。別にハルヒのご機嫌伺いが悪いという話ではない、ハルヒを踏み台にした発言なら弁えろというだけの話で、その時俺が我慢の限界に達したのも、何がしか古泉がそんな趣旨を匂わす発言をしたからだ。
「お前のそれはハルヒを想って言ってるんじゃない、都合のいいように自分の言い訳に使ってるだけだろ。何が神様だ。適当なものを崇める新興宗教と何が違う。不愉快なんだよ、そういうのは」
そして、どうやら、俺は地雷を踏んだらしいと気づいた。口ぶりとは裏腹に、これまで古泉が俺に垣間見せたことすらないような、白々しく細められた眼に、ぞっとするような深度があった。水溜りだと侮っていたら、底なし沼に直面したような薄気味の悪さだった。

「おや。……そのように受け取られてしまいましたか。そんなつもりはなかったのですが」
くつくつと笑う、男の表情が癪に障った。
パンを踏んだ娘じゃあるまいし、怯むのは自尊が許さない。そういう対抗意識すら掌の上なのかもしれないが、咄嗟に湧き上がる苛立ちは抑えようがなかった。人を見下すような挑発的な目線も、こいつは分かってやっている。なあ古泉、人の神経を逆撫でするような面を、敢えて俺にする理由を教えろよ。

品性のある言葉遣いに、いかにも優しげな微笑みの仮面が何十層か知らないが、その眼を引っぺがした先にあるものがこいつの本質ではないかと俺は疑っている。人とはまるで違う動物のような美しい佇まいに、偽悪に喉を吊らせて笑う古泉は、性質の悪い色気があった。惹きつけられたら離せなくなりそうな魅惑は、毒の裏返しだ。
俺の思惑も見透かすようにして、古泉は両手を天へと仰向ける。

「我々機関の望みが世界の安定であることはご存知の通りです。有体に言えば、彼女に春でも訪れてくれればあっさり叶いそうなものなのですけれどね。それに、僕の個人的な願望を付け加えてもいいでしょう?あなたは言い訳と両断されましたし、僕も否定はしません。彼女を理由にしているのは確かですが、しかし、あなたに言われる筋合いもない」

決定的に突き放した一言をくれて、それでも、と微笑む男が俺の首筋に手を添える。冷たい。いつかの氷のような肢体が浮かんだ。青い青い躯のような。
「芽も出ずに雪に埋もれて生命を費やすよりは――ずっと、建設的な行為であると知っていますし、だから実行してもいるのです。機関の同士を宗教紛いと評する割に、あなたは危機感が薄過ぎますね。『鍵』を手折って、成り代わるという手段すら、涼宮さんを神と仰ぐ機関内で提唱があったというのに」
古泉は何の力も篭めていない、ただ手をあてているだけなのに、奇妙な圧迫感が俺の喉を締め付ける。
艶やかな微笑は、孕んだ棘を隠さない。
動けずに硬直している俺の様子に頃合と見たか、端から冗談ですと終わらせるタイミングを見計らっていたのか。手をぱっと解いて、まるでからかいが目的であったかのように「失礼しました」と嘯いた古泉に、俺はすぐに声を発せなかった。
びびってた訳じゃない。
春季より前に散ることを悟ったような、狂い咲かずにはいられないような、笑顔を見てしまったからだ。



俺には古泉が分からない。
それこそ冬に舞う桜の花びらのように、こいつは現在進行形で開花準備をしている。
氷河期が来ようが、一人其処で咲くのだろう。茎も葉も凍り付いていようがきっと、おかまいなしに。








氷 漬 け の 獣




あなたの仏頂面に仄かな機嫌の良さを窺い知れたら、それだけで救われた。掬い取った声が暖かかった。慰めるでもなく、わざとらしい同情でもなくて、ただ静かに僕の身を案じ激昂して、ぶつけられた言葉が僕は嬉しかったのだ。
一喜一憂の日々に積もった、罪深い情欲。――嬉しかったから、手を伸ばした。差し伸べられた手をベッドの中に引き摺り込んだ。堪えていたもの総てを裏切った。



かつての僕は、抑えきれぬ多くを縫い止めておくために、極寒に身を投げ出す他に処置のしようがなかった。凍らせておけ。二度と溶けることがないように。心臓まで凍てつかせて、どうか、誰もその牙にかかることがないよう!

――巧妙にやり過ごして来たつもりでいたものの、手綱をそのとき、僕は失ったのだ。
忽ちに取り戻される獣の咆哮。この浅ましい腹の中を知った誰が、この胸の内の破滅的な望みを、見限らずに居てくれるというのだろう。彼とてきっと例外ではない。そのうちに僕は疎まれ、排斥されるだろう。それでも晒さずには居られなかった、僕の強欲は底が知れない。
一掴みでも与えられたら、枯渇するまで搾り取ろうとする欲深さが僕の体内に眠っていることを彼は知らずに、僕の術中に嵌る。僕の願い通りに彼は僕に手を伸ばす。
汚れた半身が如何に獰猛で狂おしく哀願しているか。飢えた獣は暴れ出す。寄越せとねだるばかりに、何の心を引き裂こうと構いはしない。

僕は笑う。無様に、醜く、獣のように笑ってみせる。

温もりに意識を塗り潰されて、僕が獣に乗っ取られて人ではなくなるまで、愛していると囁くだけ囁いて。その後僕があなたを噛み殺すまえに、どうか、あなたの手で僕を終わらせてください。