カントクは急病、日向は親戚筋に不幸があったとかで、指導者を欠いたバスケ部の練習自体が取り止めになった。

 火神にすれば、何の予定もない久しぶりの休日だった。とはいっても、彼の人生は今のところバスケを中心に廻っており、それ以外に趣味という趣味もない。バスケが出来ないなら、ただ自堕落に過ごすしかない暇な一日が余分に増えるだけのことだ。学業に関して言えば努力すべき点が多々あるのだから、降って沸いた休日を学習に活かす意欲を見せても良かったかもしれないが、火神一人で問題集と格闘したところで大して捗らないことは分かりきっていた。

 名ばかりの顧問はあてにならず、監督する者のない部活動は活動が認められない。自主練も禁止されては、体育館を無断使用する訳にもいかない。しかし試合に、厳しい練習にと明け暮れた火神の身体は、ボールがリングをくぐるときの、あの得も言われぬ快感を恋しがった。
 火神は黒子を誘った。学校から離れた場所でのストリートバスケなら、頭の固い教師に見咎められることもないだろうと踏んで。黒子も火神の予想に違わず、誘いにあっさり乗った。

 1対1で勝負にならないのは出会ってまもなくに証明済み。大柄な火神と小柄な黒子が、外の決して広くないコートでやることにしたのは専らパス練だった。コンビネーションを更に強化するにはどうするか、ただでさえ目立たぬ黒子の存在を周囲よりいち早く感知するにはどうすればいいかの、身体を直に使っての研究だ。敵からいかにイニシアチブを取れるか、攻撃に転じる瞬間の己の動きを客観的に評価することは、彼らの若き女カントクも常々意識するように言っている事だった。
 二時間ほど精力的に身体を動かした後、待ちの面子に交代し、火神と黒子はベンチに腰を下ろした。普段の練習のようなハードな動きはしていないつもりだが、シミュレーションしながらの行動は想定より体力を削る。


 黒子がバッグからタオルを取り出し、火神に手渡した。
 火神は受け取った白いタオルで汗を拭う。炎天下というほどの気温ではないが、昼時だけあってかなり暑い。

「あっちーな……」
「水分補給した方がいいですね」
 黒子が火神の手にある、空のペットボトルを指して言う。今飲み干した分で水は尽きていた。
「何か飲み物買ってきます。ポカリでいいですか」
「ああ、悪ィーな。オレも行くか?」
「いえ。順番取っててもらわないと困るので。すぐ戻ります」

 小銭は前払いで、と言う黒子に財布ごと預けて送り出すと、火神は目線を変えて背をより深く凭れた。
 入れ替わりに入った六人の若者は、三対三でミニゲームをやっているようだ。見るからに火神たちより幾らか年上で、大学生かとあたりをつけるが、その動きはディフェンスもシュートスタイルも誠凛のメンバーや他校のバスケ部レギュラーと比べれば遥かに劣る。お遊びの範囲を出ない、なあなあの球入れ競技だ。
 火神は小さく欠伸を噛み殺した。
 なんとなくだが、黒子が隣にいなくて良かったと思った。恐らく、浮かない顔をしている。己の心境がそっくり顔に出やすい性質なのを、この頃の火神は火神なりに自覚していた。

――
気の合う連中と一時の楽しみのためにバスケをする、それ自体は悪いことでもなんでもない。アメリカのストリートバスケだって、バスケがそれなりに好きであれば上手いか下手かは問わず、誰だって参加する資格が与えられた。明らかに下手糞な奴が、熟達したバスケ選手に果敢にゴールを奪いに行く光景は日常的に見られた。火神も体格で敵わない相手によく食い下がったものだ。
 日本のそれと違うのは、向こうにいた彼らは楽しみながら、同時に極めてハングリーだったということだ。楽しむためのバスケであったとしても、勝負はいつだって真剣勝負で、勝利に貪欲に戦う。端から負けてもいいや、という生半可な気持ちでゴール前に立ったりはしない。少なくとも火神の周囲の人間はそうだったし、プレイするからには勝つ気で挑むのが相手に対する礼儀でもあった。
 だから、失望の際に引いた熱の余韻は――コートの上に立ちながら何の高揚感もなくなったあの薄ら寒さは、忘れられるものではなかった。火神は愕然としたのだ。「適当に楽しめればそれでいい」、「負けるのが当たり前」を受け入れて、向上する余地のないプレイをしていた同級生たちに、心底。
蔑むかのように目を背けた。今思えば、あれは、自分がバスケを嫌いになりたくなかったが故のものではなかったかと火神は思う。
 誠凛に入学しなければ、黒子と出会わなければ、自分は一体どうなっていただろうと考えることがよくある。それはそれでなるようになっていた気もするが、きっと今ほどの充実感は得られなかっただろう。最低、高校バスケのレベルの上限を勘違いしたまま、早々に見切りをつけて辞めていたかもしれない。辞めてしまえば、火神には他に何もない。行き先に口を空ける暗闇が広がるばかりの、つまらない、腐った日々――中学三年の思い返したくもない日を繰り返し。
 寒気のするような想像だった。
 火神が熱にじっとりと焼かれながら、いつのまにか黙考していると、


「火神君」


――相変わらず心臓に悪い登場に、火神は飛び上がった。

「……っ、だから、テメーは気配消して近づくのをヤメロってんだよ!」
「忍んでるつもりはないですけど」

 不満げに眉を反らしながら、いつのまにか戻ってきていた黒子は冷えた汗を掻いたペットボトルと財布を纏めて寄越す。受け取った火神は嘆息し、「サンキュ」と簡単な礼を言うと、渇いた喉を潤すためにすぐさまキャップを外し口をつけた。
 湿る唇の中で舌が舐めとるように動く。黒子はその所作をつぶさに見守りながら、ベンチには座らず、静かに問い掛けた。
「……何か、悩み事ですか」
 核心を突くのだけは、相変わらず得意らしい黒子に、火神は応えず清涼飲料水を喉奥に流し込んだ。これだから鋭い奴は、という思いと、だからこそ黒子だという妙な感心もある。人の観察が好きというだけあって、黒子は人の情緒を見取る能力に優れている。
 容器の半分ほどを一気に飲み干して、火神は息をついた。
「なんでも。少なくとも、お前が気にするようなことは何もねぇよ」
「本当に?」
 火神としては本気の答弁だったが、明らかに納得していない、黒子の透明な眼は真摯だ。火神は、その真っ直ぐさに僅かにたじろぐ。

 これは火神の問題だった。そこに嘘はない。
 あまり過去のことを深く考えない火神が、後悔という足枷に捕らわれることのめったにない火神が、ほんの時折、垣間見る益体もない不安。こんなものは一眠りすればそのうちに忘れてしまうような気鬱に過ぎないし、恐らく黒子が中学時代に思い馳せて煩わされるような、感傷ですらなかった。
 今のバスケは楽しいし、遣り甲斐がある。キセキを打倒し、日本一になるという夢だって必ず叶えてやるという思いでプレイしてきた。
何も問題はない。
何も。


「火神君」

 二度目の声と間髪を置かず、降ってきたのはキスだった。
な、と口を空けた火神が、屋外の昼間という現状を認識し、顔を真っ赤に染めて怒鳴る。

「何やらかしてんだ、んなトコで!」
「大丈夫です、見られてません」
「そういう問題じゃねぇっつの! いい加減脈絡覚えろバカ!」

「火神君」

三度目。

「……んだよ、聞こえてるから何度も呼ぶな」
「ボクはキミの影です」

 黒子は揺らがない。その強靭さが、時に恐ろしくなるほどだ。火神は黒子の色素の薄い瞳を間近に見上げる。逆光に、黒子の表情は陰影を作っている。

「キミが戦う限りボクは傍にいます。どうか、忘れないでください」
――あんな強烈な告白忘れられるほど、耄碌しちゃいねーよ」
「火神君は忘れっぽいですから、念のため」
「はっ」

 減らず口。それでもこれが日常らしい、と火神は笑う。
 あの悪夢がいつ再び廻ってくるかと気を揉むなんて、まったく見当外れな単なる杞憂でしかないと信じるのは。自分の所属が誠凛バスケ部であり、そして目の前に黒子がいるというただそれだけで、根拠には十分なのだと。火神は黒子の挑むような眼差しに再確認し、やっぱりぐだぐだ考えるのはらしくねぇ、と結論付ける。

 黒子の熱い意思をぶつけられて、心は過去に馳せていた意識を現実へ引き戻す。衝動が戻ってくる。ふつふつと湧き上がる、強固な感情だ。ボールをリングに叩き付けたい、ドリブルのあのリズミカルな音を耳に残したい、黒子のとびきりのパスを思う存分掴み取ってやりたい。

「そろそろ交代掛け合うか。なんか、動きたくてしょーがねーや」
「奇遇ですね。ボクもです」
「オマエ、パスばっかじゃつまんなくねーか?何ならハンデつきでやってやってもいいぜ、1on1」
「シュートは火神君に任せてますから、不満はないです。大体ハンデ貰ってやってもボクが負けます」
「自信満々に言うなよそこで」

 黒子が笑うのを見、火神も持参したボールを手に取って、つられたように笑った。