遺 薫



 蜜の香りだ。

 髪に押し当てた鼻梁が痺れるようだと思った。この咽るような甘さは、目の前の男が花を纏っているうちに染み付いた匂いだ。野原に咲く、名の知らぬ花たち、恐らく学名はあるのだろうがドイツは知らなかった――ともかく、イタリアが器用に冠にして被って見せていた、あの花の芳香に違いない。

「ドイツの分も作ったよー。へへ。上手いでしょ」

 ふにゃりとスポンジのような笑みで、ドイツにも花の輪を用意したイタリアが言う。木陰に、梢に凭れて転寝をしていたドイツに与えられる弾んだ声。まどろみの間の出来事。

 ぼんやりとした眼でドイツは、イタリアがまるで小さな王子が姫君に差し出すように、恭しく己の頭上に花冠を被せる一連の所作を見る。その有様があまりにも嬉しそうなので、「子供か、お前は」、と苦笑と一緒に掠れた呟きが漏れた。その声もふわふわと彷徨う意識に上乗せされたもので、常日頃厳格であることを己に課したドイツにしては、何処か地に足がついていなかった。空が青過ぎるせい。気候が睡魔を誘うせい。穏やかな今が夢のように幸福なせい。理屈をつけることは幾らも出来たが、それらはただドイツの脳をくるりと回転し、沈んでいくだけのものだ。
 近頃働き詰めだったせいか、ドイツ自身、疲労が濃かった。あまりに穏やかな流れに、いささか気が緩んだことは否めない。

 あたたかかった。陽射しがまろやかで、健やかな木々の狭間をすり抜けて吹き込む微風が、肺の奥を清涼にする。新緑の丘陵。

 イタリアにせがまれて始めたピクニックだった。戦時中にするには、あまりに暢気な。そんな暇があるなら訓練だと息巻くドイツに、息抜きはいるよ、ずっとしかめっつらしてちゃ動けなくなるよ、とドイツの眉間の皺を揉み解しながら言ったのはイタリアだ。
 確かに疲れていた。思考を磨り潰し、平らにして、森の小鳥の餌に撒いてやりたい。懼れは常にドイツの脳内に付き纏い、離れなかった。任務も仕事も放擲したかったが出来なかった。イタリアの言葉は確かに正鵠を得ていた。ドイツには休息が要りようだった。それが束の間のものであっても。

 持ち寄られたパニーニの味は感動的だった。ドイツが手放しに褒められるイタリアの数少ない美点が彼の料理だ。青空の下で頬張る焼きたてのロゼッタに挟んだチーズの味は格別だった。

「この冠、出来るようになるまで練習大変だったんだー。ハンガリーさんに教えてもらってさ。ちゃんと一通り作れるようになるまで、二十年くらいかかったかなぁ」
「そうか」
「……ほんとはお揃いで作ってあげたかったけど、昔はできなかったし」
 ぽつりと小さく落された声に、ドイツは気付かない。

――その調子で、靴紐も結べるようになれ」
「ヴェー。おれ物覚え悪いから、あと三十年くらいかかるかも」
「それは、鍛錬が足りんというんだ。お前は、やればできるだろう……」

 靴紐を結ぶのと、花冠を編むのと、難易度はそれほど違わないはずだとドイツは思う。眠りに半ば落ち込みながら、人差し指に引っ掛けて、受け取った花輪の端、小ぶりの花弁を弄びながら、そう思う。

 優しい日だ。空っぽの器が瑞々しい安らぎに満たされる想いがするのに、同時に、ひどく泣きたいような気がするのは何故だろう。













 爆音。煙幕。銃撃。駆ける音、泣き声、抱擁。――腕を掴む。白旗を振る腕を。

(俺も戦うよ)

 残響に耳を塞ぐふりをしながら、ドイツは思う。光のなかに落ちてくる暗闇。
それは償いようもない罪の声に違いなかった。
引き寄せるべきではなかった。手繰り寄せてはもう二度と、手離せなくなると知っていたのに。





(――今度こそ、俺もお前を守るよ)


 涙は枯れ果てて、あの日与えられた花は死んでしまった。
 きつく抱いたお前の髪から硝煙の匂いを嗅ぐ日のことを、俺はこのとき既に知っていたのかもしれないのだ。