天を灼く、火の塊が煌々と闇を奔っていた。
ヒューズは轟音を聴いていた。義務とばかりに。大規模な錬金術を行使する際に、傍に在っては巻き込まれる恐れがあるからと離された、それは必要最低限ぎりぎりのライン。眼鏡で補正した視力は、かろうじて男の軍服を捕らえている。熱風の煽りは此方まで届いて、遅れて来た突風にやや脚がよろめいた。
夜を太陽の如く激しく照らした光は、やがて弾けるように消え失せる。
肩に、半ばしがみ付く様に。そうでもしなければバランスの取れない脚は、砂地に線上の跡を残していく。慎重にその跡を消しつつ、ヒューズは男の身体を支える腕に力を篭めた。ジープに連れ帰れば、あとは中継地点まで戻って一件落着。少しぐらいなら男に休む暇も与えられるはずだった。
一秒でも早く、そして一秒でも多くの休息を。
戦線投入から恐らく、此処最近まともに眠れていない友人への慰めなど、其の程度にしか思いつかなかった。労わり甘やかしくつろがせて、そんな言葉は戦場においては通用せず、そしてまた術者たる彼自身がそれを許さない。
「もうちっと加減ってのを覚えてくれりゃ、いっつもお前さんを引き摺って歩かなくてもいいんだがなあ」
「……る、さいぞ。こっちは、…超過、労働だ」
訴えてやる、低く唸る男にヒューズは笑った。――不自然なものではなかったとはいえ、笑うべき刻でもなかったのだが、知りつつヒューズは笑っていた。
笑っておかなければ、何も残らず歯止めが途切れてしまう、そんな漠然とした恐怖が密かにある。だから常に、誰もが安心していられるような笑顔を振りまく。これは自分なりに病んでいる者の証かもしれないとさえ思う。
男の髪は煤けて汚れている。馬鹿になった鼻ではもう判断がつかないが、肉の爛れた掌を隠すように握っていることは、男を担ぎ上げる際に盗み見た。それでもヒューズは何も言わない。言った所で、出来ることは何もなかった。男の精一杯の虚勢の形を突き崩して、何が残るということもない。――無論、帰途に着いたら即座に医師を呼ぶつもりではあったが。
「……眠い、な」
瞼を重たげにゆっくりと瞬かせての呟きが聴こえて、そうか、と前を見ながら受け答える。
停車しておいた車体まではもうじきだった。ヒューズは軽く、男の肩を叩く。
「……眠くて死にそうだ」
「お疲れなのは分かってんだけどな。座席乗ったらいくらでも寝てていいから、あと少し辛抱しろって」
「…わかってる…」
歩みは遅いが、それでも足は動かされている。揺れる黒髪からぱらぱらと、灰色がかった砂が零れる。青褪めた肌は寝不足に始まる不摂生からか、皮膚は炎天下にも関わらず死人のように冷たかった。
己の熱ごと削ぎ落としてきたかのような、生気のなさ。
「……くそ、…」
小さな悪態が、耳に届く。ヒューズは無言になり、聞き流し、やはり歩く。
『光が、できるだろう。――私が、焔で爆発を起こすと』
ロイ・マスタングという人間は、時折、「錬金術師」と「一般人」を線引きする物言いをした。
なあヒューズ。お前は人を殺す光を忌むだろう、お前は軍人だが、いくら美しい兵器であってもそれが大量殺戮を可能にするものなら、使ってみようなどとは考えもしないだろう?
『……だが錬金術師に限れば、そうではない者がいる。行き着く処が違っても、その過程に重なりが見出せてしまうんだ、…どんなに残虐な一面であれ』
私も其の一人だから。
はっきりと男は口にしなかったが、やはりそう聞こえた。自分はよりによって命を奪う術式にさえ焦がれる、狂気の淵にある研究者たちと、少なからず共有する意思があるのだと。
そのときに、仲間もろとも爆発させて投獄された爆弾狂を思い出した。ひとごろしの爆薬を積み上げて、愉しみ、快楽に耽る術士の業。
同じ穴の狢だと、ロイは言っている。
『ヒューズ、もし、私が』
彼が何を頼もうとしたのか、告げようとしたのかを知らない。
仮定の言葉を、其の日、ヒューズは遮った。
辿り着いた車の助手席に友人を座らせ、前後左右をきっちり確認してからエンジンをかける。
煤けた塵が崩れ散らばる先に、果ての見えない焦土を縫って進んだ。眼の背けたくなる惨状を、しかし逸らすことはなく見据えて運転を続けた。自力では立ち上がれない程疲弊する男が、決して自分の消し飛ばした者に対して視線を揺るがせない事を知るが故に。……自分が迷っていたら、とても滅茶苦茶な男を支えることなんて出来やしないだろうと知っていたから。
ロイは大きく揺れる車内の中で、背もたれに落ち着いて眼を伏せている。
横顔の安らかさに安堵しつつも、ヒューズは、その穏やかさが逆に恐ろしいと感じる。ロイ・マスタングという男は安易に狂えてしまえるほど弱くない、だがそれは、別の面から見ればより救いのないことではないのか、と。狂気に堕ちて離脱した術士、惨状に耐え切れず銀時計を棄てた術士を、幾度か、ヒューズは見ていた。そしてその傍で、ロイは彼らに何の情感も浮かべることなく、ただやつれた面持ちで視線を注いでいた。
ロイは焼け爛れた掌で以って、死を確かめるように半ば灰となったものを掬い取る。其処に如何ほどの意味があろうとなかろうと。
ロイは逃げない。いつでも、逃げなかったのだ。
花を踏み潰し人を撃ち空を燃やした、雲を消滅させて、陰りから覗いた太陽はただ白く砂漠世界を覆った。ロイの放った焔による激しい光は眼を開けていられないくらいに強烈で、眩しかった。
魅せられてはならない、それは閃爍の、殺戮の光。
(だけどな、ロイ。俺はお前の焔を、)
天を突き破り、溢れ出すまま世界を染めるひかりにも似た。
残酷な白日のそれをヒューズは決して嫌いではなかったが、その事実がロイを救うことはやはりない。