息を、吐く。
身動ぎはしない。眼は伏せたままだった。白昼には光差し込む室内は、電灯が落とされた深夜から抜け切らぬ闇の中だ。物音ひとつない静寂に居心地の悪さを覚えることも、今はない。握り込んだシーツ。だらり、と力を抜いたままの肢。血管の針先から繋がれた点滴が、繰り返し雫を落とす。包帯で覆われた腹部と血と、治らぬ痛みがいつまでも疼く。
おかしいな。ハボックは、引き攣った笑いを口元に刻んだ。――――おかしいな。
賢明になれれば、どれだけ楽だったか。けれどあっさりと認めることは叶わなくて、ハボックは闇雲に力を篭めようとしては、尽く失敗した。その度に呼び起こす腹の激痛と震えてしまう腕。
半端に力んだおかげで跳ね上がってしまった上体に、訳も分からない恐怖を掻き立てられ悲鳴を上げそうになって、ハボックは咄嗟に息を殺した。爪を一層、ベッドへと食い込ませる。それでも収まらない指先は、怯えているのだ、と思った。
こんなのは、可笑しいじゃないか。浮かぶのは意味のない言葉の羅列ばかりだ。混乱しているのは自覚していた。なにが一体、どうなっている?
ぎこちなく首を動かして、ハボックは隣接するベッドで眠る男に眼を遣った。
だって、隣に。
視線を遣れば、其処には眠る人がいる。命を張って人造人間に立ち向かい、その手で勝利をもぎ取り生きて帰還した―――誰よりも何よりも、護ることを誓った人が。寝息をたてている。紛うことなく生きて。
なら、これは何だ。
性質の悪いジョークだと思いたかった。腕の感覚がなくなるまで殴打して揺さぶって。そうすればどうにかなるんじゃないかと、思ってしまう。
「……………は、」
乾いた声を吐き零して、掌を瞼に被せて。ぐったりと背を枕に傾けて。
自宅の納戸の引き出しには、壊れた腕時計が修理されることもなく収まっている。随分と長い間忘れていたことを、ハボックはふと思い出した。
文字盤は罅割れて、秒針は歪んでいる。もう時計としては機能しようがない。錬金術で直してやろうか、とロイに気まぐれで訊ねたられときには笑って誤魔化した。
『必要ないスよ、そんなの』
理由をハボックは言おうとはしなかった。曖昧に微笑むだけで騙し通した。
(ねえ、やっぱり馬鹿っスかね)
ロイへの想いを自覚した日に、ロイを護れなかった日に、偶々壊してしまった時計だった。何かを象徴しているかのようで、捨てるに捨てられなかったから、放り込んでおいた。
幸福に身を委ねて時が止まればいいと願うたび、取り返しのつかない事象に出遭い時が遡って欲しいと望むたび、その時計の存在は虚しさを湛えながらハボックを正気に返らせる。そんなものはただのまやかしに過ぎないと。祈りは無駄にしかならないと。
現実はかくも恐ろしい。ハボックは気付いた。自分が心底怖れていたことを。
(―――もう俺は、あんたの手駒じゃいられない)
時計のない部屋は、秒針の刻む音すら耳に触れない。
ぱちり、と銀時計の蓋を開ける。
――――12時52分。
そっと横目に、隣のベッドで寝る大男の存在を確かめて、その呼気を聞いて、ロイは漸く落ち着くことの出来た自分のことを静かに笑った。
ゆるく息をつき、腕から力を抜いて仰向けに天井を見上げた。僅かに身動ぐだけで、火傷の痕が焼け付くように痛んだ。じっとりと汗で濡れた額を拭って、目覚めたばかりの病室を見渡す。研究所で意識を失ってきりだから、数日は過ぎているかもしれないが、看護士を呼ぶべきだろうかとロイは思考した。状況が知りたい、今すぐにでも。あれから何日経ったのだろうか。ホークアイを捕まえられれば一番速いのだが、病室内には見当たらない。かといって、大声で誰かを呼ぶ気力もなかった。
敵の懐に飛び込んで収穫した情報は大きい。反撃も痛かったが、幸いなことに自分も部下も一人として残さず皆、五体満足で存命だ。危険な戦闘だったこともあり、安堵の感情は限りなく深かった。ロイはハボックの寝顔を眺めやりながらほくそ笑む。死んでいてもおかしくない状況でしぶとく生き延びているのだから、こいつにも多少は労いの言葉をかけてやろう。その前に色々と、こき使うことになりそうだが。
国家錬金術師の証たる銀時計を、握り締めたまま。傷口から微熱を湛えていて、体力の回復し切らないロイはまたふらりと、眠りに落ちた。
時針がかちり、と歩を進めた音を聞いたような気がした。
時が止まればいいと望んだ昔はもう手に入らないことも、それはまだ、知らないふりをしている。