悩みに悩んだ挙句、何事も纏まらないまま前日を迎えてしまった。
天城は健やかな朝日を浴びながら、鳥の囀りを聞きながら、ベッドの上で足を組み、壁掛けタイプのカレンダーを眺めた。憂鬱に漏れる溜息の重さは如何ともしがたい。どうしたものか、と思う。
着替え、階下に降りると、リフォームしたばかりの真新しいキッチンにイリオンが立っていた。甘い匂いが寝室のベッド傍まで漂ってきていたから、さして驚きはしない。朝っぱらから精の出ることだ。イリオンは、昨夜の遅くまで、女性向けのスイーツの料理本を捲っていた。レシピにはチョコレートを用いた菓子もあったようだから、大方その辺りの試作だろう。「おはよう、リョーイチ」
オフホワイトのセーターの上に、フリルのついたピンクのエプロン。柔らかな金髪を、淡いブルーのリボンでポニーテールにしていた。イリオンには似合いの装いだ。華やかな笑顔の妹に、天城も自然と笑みが零れる。
「おはよう。……上手く出来そうか?」
「今、新しいケーキに挑戦中なの。後で味見をしてくれる?」
「ああ」
それくらいならお安い御用だ。天城は甘いものが得意な性質ではないが、元々母の手伝いで料理の得意なイリオンのことだ、それほど数を試す必要はないだろう。用意されていた簡単な朝食をとり、独語の新聞を見出しだけチェックする。文法や単語を完璧に理解できているとは言えないが、凡そのニュース記事くらいは把握できるようになった。日常会話すら危うかった頃と比較すれば格段の進歩だ。
食後の珈琲を飲みながら、ここ一週間ほどに予定していることを記憶を頼りに反芻した。小まめにスケジュールを見返しているから、手帳をチェックするまでもなく空で言える。所属しているチームの練習は今日は休みで、午後からは母と妹の買い物に付き合うことになっている。夕食の後は皿洗いの担当。予定の復習が終わったところで、食器を持って流し台に立つ。隣では、綺麗に焼けたスポンジを前に、搾り器でチョコクリームと格闘しているイリオンがいる。
天城は、爽やかな朝にはそぐわない表情を浮かべた。いじらしい少女の姿を微笑ましく思うのと同時に、袋小路に嵌りこんでいる自分が、なんとも情けない気分だった。
『リョーイチ。ニホンのValentinstagは、どういったことをするの?』
思い出すのは、一週間ほど前に、妹と風祭から向けられた懸命な瞳だ。
天城の友人である風祭は、リハビリのためドイツに越して以来、医者に求められた定期健診を兼ねて一年に一季のペースで此方と日本を行き来している。現在は暫くドイツに滞在中だ。その風祭から、「天城、ドイツのバレンタインってどんなのかな?」と訊ねられた身分として、イリオンが何を意図してそれを訊ねてきたのかは、考えるまでもないことだった。
眼に入れても痛くないような可愛い妹と、親友と思っている男が、順調に育んでいるらしい恋路に些か複雑な気分を味わいながらも、知り得る限りのバレンタイン知識をイリオンに披露した天城である。
とはいえ、天城もそれほど博識なわけではない。講釈は、あくまで常識的な、「女性が、好意を抱く相手にチョコレートを贈呈する日」という説明に止まった。
天城自身もドイツに住むようになってから知ったことだが、ドイツでのバレンタインにおける風習は、日本とは異なる。ドイツでは、男性が想い人、恋人や妻に花を送る日なのだ。
イリオンは日本人男性である風祭に、日本の風習に倣って手作りチョコレートを。風祭はドイツ人女性であるイリオンに、ドイツの風習に倣って赤い花を。お互いの文化を尊重した上で、想いの通じ合いを確かめるとは、また初々しい恋人同士らしい話だ。二人にとっては、穏やかな交流になるだろうと思う。想い会う男女に相応しい、いい一日になる。――それは、願ってもないことだ。
「そうだ、リョーイチは?花を贈る人はいないの?」
「………ああ」
天城の溜息に、イリオンは気遣わしげな表情になる。なんでもないんだ、と首を振ったが、フォローになったかは怪しかった。
イリオンに深い意図はなかったのだろう。無邪気に、兄に恋人がいないのかどうかを、好奇心から訊ねただけのことだ。イリオンはまだ十代だが、天城は二十を過ぎている。恋人の一人や二人いても可笑しくない年頃と言われればその通りだ。
そして、恋人なら、周囲の期待の眼に違わず存在する。ドイツではなく日本に。
問題はその恋人が、不破大地という名の、何かと多忙な男であるということだった。
……天城は吐く息を深めた。
買い物の荷物持ちを任されて、モールをあちこちを歩き回って、結局夕食は地元のレストランで取った。あっという間に迎えた夜、シャワーを浴びておやすみの挨拶も済ませた後は、もう寝に入るだけだ。
ベッドに腰掛けて、天城は窓の外を眺める。濡れた髪にタオルをあてて、不破も何処かで空を見ているだろうか、とぼんやり思った。
難儀な感傷だ。
天城が不破と所謂「お付き合い」を始めたのは、何年も前の話になる。だが、主な活動拠点がドイツである天城と、日本である不破とでは、噛みあうための条件が厳しい。それぞれ生活があるのだから、そう時差を無視して頻繁に行き来などできない。
会って時間が取れるのは年に数回ということもあって、焦燥の裏に積もる寂しさが隠せなかったこともあった。触れたかったし、触れられたかった。温度を求めて指が彷徨って、行き着くのは冷たいシーツの感触だ。
その代わり、電話やメールはまめにする。メールは週に一度は必ずPCに届くし、天城も定期的に送り返している。相手の誕生日には、普段は許さない国際電話――それも長電話だ――を、解禁して話をしたりもする。
究極の長距離恋愛やな、などと、事情を知った藤村にからかわれたこともあった。当事者である天城からすれば、この関係は、そんなロマンチックなものでは到底なかったが。
カレンダーを見る。もうじき日付が変わる。明日、イリオンは風祭とデートだ。購入したばかりの服を着ていくのだとはしゃいでいた。風祭も手製のイリオンのケーキを前に、あの「初見殺し」と呼ばれる人懐っこい笑顔を炸裂させるに違いない。羨ましい事だ、と考えた天城は、掌で顔を覆って自嘲した。
2/14、バレンタイン・デー。
……贈ってみようか、と思ったことはある。
お互い、忙しく中々会えない身だ。あまりに遠ざかっていると、気持ちが逸れてしまうんじゃないかと不安にもなる。その意味では、イベント事に乗じて気持ちを確かめ合うというのは、確かに悪くない方法だ。
――しかし、今更だった。
恋人同士になったばかりの時ならばともかく、もう何年も経っているのだ。
付き合い始めの頃は、余裕がまったくなくてそれどころではなかったし(第一向こうが此の日にある程度の期待や興味を抱いているのかどうかすら謎だ)、当然ながら、不破からチョコレートの類を贈られたことは、一度もなかった。
天城グループの後継として厳しい教育方針のもと育てられた天城は、自分がチョコレートや花を相手に贈呈するという行為に、女々しいというネガティブな感情を払拭できない。他人の行いはいいが、自分がやろうとすると途端に尻込みしてしまうのだ。不破との付き合いの中で、葛藤に見舞われる機会は幾度も付き纏い、そのたびに逃げ出したくなるような心地になっては、それでも不破のことが好きだからと踏み止まってきた。
……不破は、そんな天城の様子に介さず、常に泰然と構えていて、己の未熟さとは裏腹の、度量の違いを思い知らされる。天城が不破とこれだけの距離を経て、なお離れがたいと思うのは、そんな不破の動じなさを見ているからかもしれなかった。
ちなみに不破は単なる天然だ、という話もあるが、天城の耳には入っていない。恋は盲目という言葉は、こんな時にも適応される。
「………会いたい、な」
ぽつりと落とした声は、誰に跳ね返りもしない。虚しく響いて消えてしまうだけの言葉。
不破に会えれば、こんな下らない煩悶に悩まされることもないだろう。目の前にすれば、きっと、何もかもどうでもよくなる。……抱き締めあえるだけで十分だと思える。
孤独な時こそ本音が出る。このところの悩みの正体は、バレンタインという暖かな寄り添いあう恋人たちの祭典に、毎年、自分自身が加わることのできない一抹の悲しさだ。ただ顔が見たい、話したい、触れたいというだけの、純粋な欲求だった。
天城はかぶりを振ると、ゆっくりと立ち上がり、机に備え置かれたデスクトップ型のパソコンの電源を入れた。
煮詰め続けた気持ちは、結局のところ戻ってくる。自分が不破を好きで、そのために悩んでいるのだという原点に。あまりにも単純だが、初心に還るのも、悪くはないかもしれない。
天城は開いたブラウザに、そっとキーを打った。
花も菓子もないが。……一言を贈るくらいならいいだろうと思う。
明日が世の恋人達に祝福が降る日なら、その恩恵に預かる権利は、天城と不破にもあるはずなのだから。
Sun, 14 Feb 00:00:49
To : Daichi Fuwa
Alles Gute zum Valentinstag.
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Sun, 14 Feb 07:42:22
To:天城
今そちらに向かっている。
贈るものはチョコレートと花束の両方用意したが、どちらか要望はあるか?
Sun, 14 Feb 08:12:11
To : Daichi Fuwa
Ich brauche nicht beide.
Wann kommst du ?
Sun, 14 Feb 08:13:22
To:天城
jetzt .