確かな、存在を響かせる音だった。等間隔で踏み込まれる踵が、つまさきを囲う靴の金属部位とともに、床におろされるたびに高く鳴る。
 教団服の衣擦れ、帯剣の重量があげる軋み、迷いのない足取りが廊下に響く。
使用人室へと近付いてくる男の正体なら、目を瞑っていても分かった。自慢ではないが、音の気配には敏感な方だ。昔、姉付きの楽師に「耳が良い」と褒められたこともあった。


(そういえば今日は、稽古の日だった、か……)


 とはいっても、稽古に励むべき公爵家の一人息子は、意思疎通の会話すら上手くこなせないのだが。
 ガイは、薄目を開く。既に数年使用しているベッドの上から、緩慢な所作で上体を起こした。日は燦々と照る白昼、まどろむには早い時刻であるにも関わらず室内に篭ることを許されたのは、今朝方に体調を崩し―――よりにもよって遊び相手になっていた子どもの前で、意識を飛ばしてしまったからだった。
 髪を掻く。淀んだ目で視線を扉へと遣った。ああ、確か。寝入る前に、錠を下ろした……。寝起きで纏まらなかった思考が回転を始めると、今朝のことがまざまざと脳裏に蘇り、反射的に息が止まりそうになる。





―――ガイ。眠っているか」

 足音が止む。かつん、と、最後の響きを乗せて。
 突き上げるように沸く記憶に、恐慌状態に陥りそうな精神を寸前で掬い上げたのは。扉の前より投げ掛けられる、耳に馴染む柔らかな低音。
咄嗟に口をつきそうな名を無理やりに封じて、ガイは声を絞り出した。 

「……ヴァン……様」
「起きていたか」
 もし起こしたならばすまない、と律儀にヴァンは言う。ガイは息を吐き、全身の力を抜いた。

「ルークが貴公に会いたがって泣き止まないらしい。……困り果てたメイドが呼んでいる。体調がまだ優れないようならば、その旨を伝えるが……」
「大丈夫、です。今――行きます」

 そういえばあの子どもは、何故世話役が姿を消したのかさえ、分からないのだ。
ガイは床に足を下ろした。衣服の乱れを手早く整えるが、重苦しく喉を締め付けるような圧迫感だけは、早々に消えてくれるものではなかった。世間話に常駐するメイドの喋り声も、掃除夫が窓を拭く規則正しい水の音もない静寂、ただヴァンが其処にいるのだという事実だけが違う。
 ガイはふらつきながらも扉前に立ち、錠に手を添え、―――動きを、止めた。
頭が鈍く痛んで、日が差す暖かな部屋に眩暈がする。ペールと二人で寝泊りするにしては小さいとはいえ、決して粗末ではない。使用人に授けられた、平和で満ち足りた、安眠の叶う小部屋。



 嗚呼、なんて夢をみていた。
ガイは深く深く黙祷し、懸命に眼を瞑る。




 慣らされている自分に、吐き気がした。














 記憶障害のために、まだ操る言語もたどたどしいルークは、ガイが私室に姿を見せた途端唸るような大声をあげて飛び込んできた。今にも転倒しそうなその子をかわすことも出来ず、十歳児にしては平均よりも些か劣る身を受け止める。
 なんでいなくなるんだよ、がいのばか!泣きながら未発達の拳で胸を叩いてくる、赤い髪の幼子。果てのない穴に落ち込みそうな――疲れた意識を逸らそうと懸命になりながら。悪かったと謝罪し頭を撫でて、ガイは一回り小さな身体を子どもの気が済むまで抱き締めていた。

 機嫌の戻った子どもが、疲れきって眠ってしまってお役御免になるまで。


「やっと落ち着いてくれたみたい」
歳が割合近しく、よく話し相手にもなるメイドの一人が、ほっとしたように笑顔をみせた。

「ごめんなさいね、ガイ。具合が悪いのに…。わたしたちだけで、何とかルーク様を宥められれば良かったんだけど」
「気にしないでくれよ。俺も――子守役は、仕事……だからさ」

 かたく袖を握って離すまいとしながら寝息をたてるルークの、指先をそっと解いて立ち上がる。
 乾ききった唇を動かして、何でもないように笑みながら――実際には泣き喚くルークの相手をしている内に、更に息苦しさが増したような気さえしていたが、言い切った。彼女の面を曇らせることは本意ではなかったから。
 後頭部の鈍痛に治る気配はない。無意識に患部へやった手を、横からやんわりと掴まれる。

「……ヴァン、謡将」
「すまない。貴公の体調不良は了承しているが――些少、相談事がある。彼がこの状態では、まだ稽古を再開するのは難儀そうなのでな」
 私にはまだルークにどの程度理解力が備わっているか知識がない。尤もらしく言いながら、覗き込まれる青の眼は、それが真意でないことを伝えていた。
 疑われる要素のないよう繕われた口実。
 
「そう……ですか。俺なんかの話でお役に立つなら、承りますが」 
「助かる。そう長くは取らせないつもりだが――休むのだったな。貴公の私室への中途にでも、話を頼めるか」
 それならばお帰りの支度だけでもと、用意に立った彼女を慌てて引き止めた。ルークの相手をしていた分、通常業務が滞っている筈だ。後は俺一人でどうとでもできるからと告げる、ガイの気遣いに少女は微笑んだ。
 有難う、御大事にね。

 優しい慰めの贈り言葉に押され、ルークの眠る揺り篭のような部屋を出る。














 子どもの部屋は日溜りで、眩しく、居た堪れなかった。庭を横切り廊下に上がると、明暗の差にまた視界が揺れるが、正直ほっとしていた。
 いつのまにか強張っていた肩に、さりげなくヴァンの手が回る。押し付けがましくない自然な度合いで、指は決して触れた膚を圧迫せず、護るようにあたたかい。

 

――随分、無理をなさっておられるようだが」
「……無理ってほどじゃないさ。それに、お前に言われちゃお仕舞いだよ」
――、ガイラルディア様」


 ガイは少し笑った。悟られたくないこんなときばかり、ヴァンは見抜こうと此方を見据えてくるのだ。そうして、自ら行動を示唆するのではなく、ガイ自身の意思でヴァンに縋り付くのを待っている。余計な世話は焼かずとも、限界が来れば、頼る場所があるように取り計らって。
 
 平易に投げ掛ける呼び声でさえ、どうしてお前はそんなに優しい。

 肩甲骨に添えられた手に、左腕を伸ばして手を重ねた。固い膚をなぞり、拠り所のありかを感じると、自分の微笑が易々と崩れるのを自覚した。抜け落ちた笑みの下には、常に笑顔であることを己に強要してきたが故に、歪な形でしか本心を晒せない無様な少年が佇んでいる。



「……見捨ててくれて、いいぜ」


 ガイは視線がより深く捧げられるのを感じ、何も言わずにガイの言葉を待つヴァンの当たり前に喉を灼かれた。

 足が、止まる。

 泣きたいのかもしれない。此処で泣き喚くことを許されているなら、何も省みることなくそうしたのかもしれなかった。憎み、望み、懇願し、ガイは世界に溢れた想いから復讐を選び取ったが、それにさえヴァンは訊かないし問い質すこともしない。言葉をただ待って、信じて其処にいるのだ。それはさながら監視者のようで、護り人のようで。



 真白になり返された赤子同然の少年は、硬質の日々に着実な変化を呼び寄せる。
己のフルネームすら満足に呼べない小さな子は、よく泣き、よく笑う。しがみついて傍を離れようとせず、突き放そうとすれば愚図り、留まれば途端に大輪の花が咲くように、満面の笑みを開いた。
 身体の不具合を押し殺して、世話に奔走していた今日の朝もそうだったのだ。自分が少年に向け、ごく自然に微笑っていたことに気付いて愕然とした。

 
――俺は此処にいたらきっと、お前の傍にいけなくなる、…ヴァン」

 ガイは俯けた額をヴァンの肩口に押し付ける。
吐き出した声はその文面とは対照的に、叫び止まない想いが滲んだ。
 離れてくれるな、頼むから。
夢をみていた、白亜の庭で笑う自分と家族、ヴァンの子守唄におやすみのキス。目覚めてみればあろうことか、自分は叫びたいくらいに幸せな余韻を甘受しているのだ。あの切なくいとおしい夢からは、幾ら待っても憎悪に滾る心は沸かず、心を支配するのは言い様のない寂寥感だけ。忘れてしまってはいけないのに、赦してしまってはいけないのに、鈍磨した復讐の剣はもう、傷つけるための標的すら見失う。



「怖いんだ、…絶対に間違えないって自分勝手に信じてたものを、選んだつもりでいたってのに…!」

 

 かたくかたく、目を瞑れ。あの惨劇に塗りつぶされた記憶を手繰り寄せろ。風化させるな。
 血の海と屍の群れ、大切なひとたちの息絶えたからだ。攫ってでもいい、此処から連れ出して全部覆って、あの光景を緩めさせないで欲しかった。そうすればまた、形見の剣を奪い返してでも、突き立てる意思を保てる。あんな、幸せな夢を見ずに済む。
  眠らず眼が乾ききるまで瞬きせずにいられたなら、 眠らせないで、子守唄でなく目覚めの歌を唄ってほしいとガイは願った。だがヴァンは、ガイとは対照的に静穏な笑みを剥く。

 ガイラルディア。あくまで調子を崩さない、穏やかな呼びかけは、ガイから呼吸の意識を奪い去る。




「貴公がルークを殺さずにいたとしても、」

 
私は責めはしない、貴公が良心の呵責に苛まれる必要もない。




 呆然と見上げるその姿を受けて、彼は笑みをひととき深くする。
それはそうなることを予め知っていた者の諦めで、外れなかった事への安堵を窺わせた。ガイの痛々しい吐露の一切を否定し、忘却を肯定する言葉。



―――貴方が選ぶことだ」

「殺せないかもしれない、愛してしまうかもしれない、それでも?」

「それでも」



 繋ぐ答えはなかった。噤んだ彼からは、代わりにキスが落とされる。瞼の上に、睫を掠めて、子をあやすときにするような触れるだけのくちづけだった。

 フラッシュバック。鈍痛を引き裂く白い灼熱は、故郷の屋敷、寝室の窓際にかかっていたカーテンで、紅茶を楽しんだ庭に翻っていたテーブルクロス、祝福のキスを受けたベッドのシーツの色だった。
 暖かな眠りを誘う部屋が怖い、胸を締め付ける穏やかな夢を見るのが怖い、忘れるのが怖い。



――だけどお前は、何を見てる?)



 
 ヴァンデスデルカ、唇が戦慄いた。
金縛りにあったように動けないガイを抱き寄せ、ヴァンは心配事はないと言い聞かせるよう甘く囁く、安眠の加護があるようにと。それはかつて姉や母に夜耳元で受けた、優しい祈りの文句だ。おやすみなさい、いい夢を。けれど赦しの囁きは、ガイラルディアを眠らせない。
 



赦 し の 唄 に 眠 ら ず の 姫