『ガイラルディア、そろそろお茶の時間にしましょう。ヴァンデスデルカ、貴方も一緒に上がっておいでなさい』
いい日和ね、と、唄うような婦女の声。
美しいひとが綺麗な手を軽く二度叩いて、庭園で駆け回っていた小さなこどもと自分をテラスに招いた。
『ヴァン、あねうえがね、お茶だって!』
くるくると回る、パラソルのように変わる、愛らしい子供の表情。
手を引かれるままに、その後をついて走った。あの頃確かに世界には、眩いばかりの光が溢れていた。
―――いくら抱き締めても消えることのない、優しい世界が。
質の高い、紅茶葉の香りが漂った。立ち昇る白い湯気。
飾り物のような茶菓子はメイド達が用意したものだが、その紅茶は目の前の青年が、手づからカップに注いだものだ。
ファブレ公爵家は王族に連なる家柄だけあり、賓客を迎える応接室も、どの貴族の館のそれと比べるべくもない。タペストリー、革張りのソファに彫刻の施されたテーブル、そして並べられた箔入りの高級菓子。
ヴァンは僅かに、瞑目した。場違いだ、とは思わなかった。ただ、これほど華やかな場所にあって、思い描くのは決して此処ではなかった。……それだけ、だった。
「ルーク様はもう暫くかかるそうですので、それまでお待ち下さい。では」
「待ちなさい」
ヴァンは、給仕を終え、足早に部屋を出て行こうとする青年を呼び止めた。
振り返った表情は、困惑の一点。他者から疑われるような行動を極力避けることが暗黙の了解であった筈なのにと、訝しんでいる様子だった。
「なんでしょう、ヴァン様」
「語らう刻くらいはあるだろう。……それとも他に、何か用がおありか」
語調が変わったことに気付いて、ゆっくりとガイは瞠目した。それから、困ったように眉根を寄せる。
「――あんまり長居すると、疑われるだろ?」
「私が話し相手に引きとめたのだと言えばいい。実際、これまでにも何度か剣の話を交えていたのだ、誰も不審には思うまい」
教団の主席総長と、公爵家に使える下っ端の使用人。子息が父親に捕まって稽古に来られないので、その間の待ち時間に、応接室で剣の話題に花を咲かせる。
ガイは予め用意されていた釈明に、不思議そうに瞬いた。
「そこまで言うなら、俺は別に構わないけど。……珍しいな、お前がそんなに拘るの」
言いながらも、ガイはふわりと、笑った。
ヴァンの提案が、予期していたものではなかったにせよ、彼にとって喜ばしいものであることには変わりない。ヴァンが屋敷を訪れるのは、大概が決まってルークの稽古の日。ガイとヴァンがじっくりと腰を据えて話すなど、そうそう機会があるものではなかった。
「そういえば、こうやって顔を合わせるのも久し振りだよな。……何から、話す?」
預言によって詠まれた数日先にあるらしい大嵐のこと。「神託の盾」騎士団のこと。習ったばかりの新たなシグムント流の型のこと。シェリダンで開発されている途中だという新種の音機関の話。
温かなティーカップを片手に、ヴァンとガイが語り合いに興じた刻はそれほど長くはなかったが、その日はそれだけでも、酷く満ち足りた時間になる。
共に茶を飲むなど、何年ぶりのことだったか。
ヴァンは、嚥下してからも舌に残る紅茶の風味を、和やかな雰囲気のなかで堪能した。かつてのホドで、故郷の館で飲まれていた紅茶の淹れ方など、当時幼かったガイが知っている筈もない。それなのに、口に含んだ渋みと甘味は、確かに懐かしい。
「そんなに悪くないだろ。紅茶は、元々あったのに少しだけアレンジしてみたんだ。茶葉も、買出しのときに選ばせて貰ってさ」
「……」
あの夢のような昔の、なくしてしまった紅茶の香気。
「……?どうか、したか」
「―――いえ」
言葉を濁したヴァンにガイは首を傾げたが、続けて訊ねようとした言葉を遮るように、扉を叩く音が響く。
メイドだった。扉向こうから、落ち着いた声で知らせを告げる。
「ルーク様が稽古場にお戻りになられます。そろそろ、御支度を……」
ガイは肩を竦め、もう時間切れだなと苦笑した。ヴァンは溜息をついた。断るなどできる筈もなく、答えはひとつきり。
「―――承知した」
親から絞られ、稽古まで先延ばしにされて不機嫌だろう赤毛の少年に、これ以上の遅れで不信感を持たせる訳にもいかない。
二人の歓談は、それで終わりだった。
「じゃ、俺はここを片付けてくから。……今日は、楽しかったよ」
ヴァンデスデルカ、笑みのうちに、ガイはそうヴァンを呼んだ。それが最後の合図。これからは、彼らはあくまで他人であらなければならない。
元の通りに口調を取り繕って、二人は演技を再開する。
「ルーク坊ちゃんがお待ちです、ヴァン謡将」
「……そうだな。行こう」
ヴァンは頷き、ソファから立ち上がった。
仮初の親交を結ぶ者のもとへ、かつての主を差し置いて歩まねばならぬ。未だ目前の青年は知らない、持ちかけるにはまだ尚早と、長年胸に潜めた復讐の全容。預言に惑わされる世界に救済を。
背を向ける。
迷いなどなかった。ない、筈だった。
「今はあまりゆっくりもできないから、しょうがないけどさ。いつか――人目を忍んだりしなくても過ごせるようになったら」
「総長」と「使用人」に戻ったはずが、一介の奉公人には出過ぎた砕けた調子で。茶器を盆に乗せて、布巾でテーブルを軽く拭きながら、ガイ。
扉を潜りぬけようとしていたヴァンは、一拍の逡巡の後、振り返った。ちょうど頭に巡らせていたことを、ガイが察したのではないか、ある筈のないことを束の間疑う。
視線を上げてヴァンに合わせる、青年の瞳は昔からひとつも変わらない。その青い瞳に、数え切れない程の慈愛を。傷つき苦しんだ跡は覆い隠して、まるで其処にはまた光のみの世界があるのだと、導いてみせるように。
「一緒にまた、飲めるといいな。紅茶でも、酒でもさ」
将来互いに、誰か良い人を見つけて結婚して家族ができて、爺さんになって茶でも一緒に。それくらい生きて。
それは意識さえされずに放たれた、無言の糾弾。
ヴァンは戦慄した。
この主はまるで、ヴァンの心の内を何もかも見透かしたように、笑うのだ。
そんな幸せな風景が、いつか。己が壊してしまうだろう未来に。
許されるだろうか、許せるだろうか――そのとき、裏切りの旗を掲げた自分は。
胸中を綺麗に包み隠して、ヴァンは静かに微笑んでみせた。青年の夢想と自分の求める世界が、決して相容れないことを隠し。
「……そんな日には、またお誘いを頂きましょう」
現実にはならないことを知りながら与えた言葉に、ガイは酷く満足そうに笑った。