※ヴァンが復讐者でないパラレル
 





 
 

 眠らずにはいられない日は、誰にでもあると思う。臨界点に達した身体が休息を欲してのこともあるだろう。眼を伏せて何も考えないようにしなければ、心ごと支えられずに崩れ落ちてしまうから、一時でも思考をないものにする為に眠りを欲することもあるだろう。


 ―――病持ちの、男がいた。
彼自身が口にすることはなかったが、接する内に、自然と知れるようになった。慢性的な、どんな名医にかかっても治すことのできない病。何時かに、無理やりに吐かせたことがある。男は、随分昔から続いていて、ほんの少しずつ細胞のひとつひとつが終わっているのだと、治る見込みはないことを告げて笑った。「故郷が墜ちていくときに、喉が潰れるまで唄い続けて、第七音素を急激に大量放出したことが原因かもしれぬと。……私が研究所に通い詰めて分かった己の病状は、それだけです」

 前触れなく訪れる意識の途絶。感覚の消失。急激な眠気に目覚められなくなる、そんな幾つかの症状は、年を追う毎に悪化してゆく。無駄でもいい、休め。可能なら専門医にかかれ。負担を減らせ。忠告というよりは心配からの言葉も、男には届かなかった。総長職に就任し騎士団を統括、指揮する立場、早々休んでばかりはいられないのだと首を振った。なすべきことがありますので。お心遣いは、有難く―――薄く笑って身を翻す、何処までも性質が悪い。







―――素直に言うこと聞いてくれりゃ、俺も気を揉まずに済むってのにな」

ぼやきが厭味になるのは意図しての行為だ。死霊使いの異名をとる懐刀の著書、それも今では入手が難しい絶版本を餌に釣っての私的な昼食時間。外からはのどかな、都全体を包む水の音が聞こえてくる。飯を終えたら散歩にでも誘って暫く話に興じようと思っていたのに、出された食事を綺麗に平らげてから、当の男は餌にしたプラネットストームやら何やらについての研究論文を読み漁っている。……おかげで此方は手持ち無沙汰だ。

 わざとらしい呟きを聞き咎めて、書物から一時的に面を上げたヴァンは、したり顔でのたまった。
「仰ることを全て受け入れていたのでは、外出もままならなくなります」
付け加えられた苦笑に、そういう応答ばかりは嫌に理性的だと、むくれてみせた。自身の身体は二の次にするくせに、と。
「あの眼鏡から著書を拝借してきた俺に、もっと誠意があってもいいと思うんだが」
「……条件は、昼食の同伴ではありませんでしたか?」
「目的達して本が手に入ったらポイか。皇帝を使い棄て雑巾みたいに…」
よよよ、俺は悲しいぞヴァンデスデルカ、と袖で目元を隠しながら泣き真似ると、恐ろしく深い溜息が吐き出された。それから読み掛けの本を閉じる音。
「分かりました。そこまで仰るのなら陛下の御前で書物を開くのは控えましょう。それで、私に何をせよと…」
「構え」
――随分と端的な御答えを好まれる」
「滅多に会えないんだ、偶にくらい仕事もしがらみも全部捨てろ。つまらん」
「……御意に」
もう一度、呆れたような息と共に、ヴァンの口元に微笑みが浮かんだ。馬鹿な話だがその笑みの度に、この男が跡形もなくすぐに此の場の影のように、溶けてなくなってしまうのではないかと思っていた。
 胸の内に何時の間にか滑り込む疑心暗鬼。暴き立てればきりがないほど溢れてしまうのが分かっているから、普段は醜いのが分かっていても見ない振りだ。其の分だけ、発する声は明るいように努めた。
「よし、決まりだ。ブウサギを庭に出してブラッシングするから、手伝いを頼むぞ」
「……雑用ですか…」
思いつきだったが、言ってしまってからこれは良案だと自分に自分で頷いた。さっそく、と勢い込んでとっくに空になっていた皿を前に席を立つ。笑みとは裏腹に心なしかうんざりしたような言葉を一言零し、ヴァンも後に続いて立つ――はずの音が、がちゃり、と耳障りな音を孕んだ。
 床に砕けた硝子杯。
立ち上がろうとしていたヴァンの膝から、力が抜けた。身体の重みを支えきれずに前のめりに倒れこむ長身を、慌てて身を乗り出し受け止める。そのままずり落ちないようにテーブル越に支えるはめになった。
拍子に肘で突いてしまったカップが、やはりテーブル上から滑り落ち、大きな破砕音。ついでに蹴倒した椅子の木の背もたれがぶつかる音も響いた。
いつものヴァンの、発作だった。










「聞こえてるか、ヴァンデスデルカ」

此の侭では埒が開かないと、寝台に男の身を運び、寝かせるように下ろす。ヴァンはピオニーの前で医者に診られることを極度に厭う。病状の改善を図る術はないから、発作が起きたときには、ただ経過を見守るだけに留めていた。
それにしても、自分よりも長身の男を抱えるのは骨が折れた。引き摺る様にして横たえた後は、傍に腰掛けてヴァンに静かに声を送る。
死人のような顔色と、浅い息。もう幾度目になるだろうか。
明らかに、発作の間隔が狭まっている。――言い様のないただただ不吉な予感が胸を掠めていく。それでもどうにも出来ない、男が眠れば目覚めるのを待ち、そして彼が目覚めればまた立ち上がって闘いに出向く姿を見送るだけだ。

「……聞こえてるか」
「は、い」
手の甲に添えた指先が、ヴァンの身じろぐ気配を敏感に捉える。薄い瞼が開いた。覗くのは海と空を綯い交ぜにした透明で酷薄な青。
「申し訳ない、このような」
「……いい、気にするな。今日はこのまま休んでろ」
 寝かしつけようと、紐が解け流れた亜麻色の髪を梳かす様に撫でる。だが、その穏やかさに身を委ねることを拒む様に、ヴァンの腕が持ち上がりその手を握った。
 上蓋は落ちかけて、何処か虚ろだ。急激な眠りに落ちて、一日から二日瞳に何も映さなくなる症状のひとつが訪れていることを知る。
 ヴァンは抗っていた。どうやっても拒めない筈の眠りの衝動に抗って、声を絞る。

「……眠らず、に、――すむもの……なら……」

 このまま眠りに落ちて、目覚めなくなってしまうかもしれないからと、うわ言に似た拙い舌遣いで、睡魔に流れ落ちようとするものを堰きとめることを望んでいる。
 湧き上がった感情を御しきれずに抱き寄せて、その唇に口づけた。消滅を寸前にした泡沫のような、溶けかけの水の匂いがしたような気がした。
「そうだな……正直、お前を眠らせたくない」
 このまま目覚めない眠りにつきそうなヴァンを前に本音を吐露して、そうだったなと昔のことを思い出す。溺れるようにベッドに沈んでこの男を初めて抱いたときも。
 眠らせたくなかった、ただ、それだけだった。





 大きな寝台に乗りあがって、ヴァンの上着と下衣を脱がせる。同時に自分も上着を取り払い、開いて露になった肌のもとに手を差し込んだ。ヴァンの全身は神託兵として参加した歴戦で、前線を走ってきた分だけ大小の古傷が皮膚にくっきりとめぐっている。胸元の刀傷らしい跡に、丁寧に舌を這わせた。
 ヴァンの身体が僅かに震える。反応を見ながら胸の突起を指先でくすぐるように撫で上げると、息が、微かに呑まれた。眠りに落ちかけた瞳が僅かに見開くのに合わせ、ゆっくりと後ろに手を回した。
今度は舌先で、胸の飾りを擦り上げる。ヴァンの声から漏れる、押し殺した甘い声。
「ふ、…」
「……声、殺すなよ」
――いつもながら悪趣味な…ことを、仰る」
反論は下肢を探る手で遮る。太股の内側、付け根。どうやら弱いらしく、指で撫でるだけで感じるらしいことを知ったのも、少し前の話だ。
「は、っ……」
「そういうんじゃなくて。……お前が起きてるってことを、俺に教えろ」
台詞に動揺した男の顔が困惑以上のいたみを抱えて歪む。
その様を見ないように、順々に身体を辿った手を双丘へ滑らせた。もう片方はとろけだしたところを特に優しく、撫であげる。濡れた指先で解すと、ヴァンの眼が情動への快さにひととき揺れた。
「……陛、下」
「醒めてきたか?」
――ん、んん、…っ」
二度目のキスは口内を蹂躙するように、歯列をなぞって唾液をかきまわす。熱くなってきた身体が、更に熱を求めるように舌を絡み合わせ縋りついてくる。水の濡れた音が喉を鳴らすが、息が切れるまで貪るのをやめなかった。
長い間の接触の後くちゅり、と糸が切れて離れて。荒く呼吸をしながら、どうやら眠りを妨げるのが叶ったらしく綺麗に見開いたその眼で。
「……私は。いずれ乖離、し、此の世の者でなくなろうと」

貴方に。
人差し指を、唇にあてる。それ以上の言葉はいらなかった。「言わなくていい」と、その身体を掻き抱く。温もりはまだ此処にあることを確かめる。

言霊を恐れていた。そんなものは杞憂だと笑い飛ばせないのは、その未来の可能性の高さを理解しているからだ。




眠らせないでくれと、茨姫が言った。
百人目の魔法使いはそのとき、どうしたのだろう。






墜 ち て ゆ く だ け の 話