あ わ や ラ イ オ ン に 喰 わ れ か け た 猛 獣 使 い







 子どもの手は常に冷たいものだった。熱を介さない死人のような手。このような年頃ならば、燃えるように熱い手であってもおかしくはないものを。
 氷を纏わりつかせた凶器のてのひらは、よく彼―――イオンが欲したところに押し付けられた。耳の裏、鼻筋、瞼、時にして唇。押し当てた部位から体温が擦り減らされていくのを、そうして呆れと共に私が表情を改める様子を覗き込むのを、彼は楽しんでいた節がある。聡く理性的であるのに、気まぐれの塊のような精神。まるで、猫だ。


 喉笛に爪をたてられたこともあった。力は大したこともないが、鋭い爪先が食い込む痛みは避けられない。それでも振り払わないでいるうちに、少年は興味を失って身を離した。くっきりと、赤い跡だけはその膚に残し。



「利用されるのも承知で利用する、その為の共犯。……いわば対等関係だって結んだ約束なのに、きみは抵抗もしないんだね?」

 もう少し遊びたいのに、と笑う。ふと考えた、猫というのは気軽な呼び名を与えるなら確かに相応しい言葉だが、多分それでは意味合いに強度が足りない。少年は本気で、楽しむために、暇潰しのために、提案に乗った。生きるためではない。既に彼は己が死すということにおいて世界を見放し、諦めていた。足掻くように強いているのは、己の勝手だということも。
 だから正しい言葉は、彼が喰らう者であるという事実。
 預言を足蹴に、つまらないと歌いながら、心まで引き摺り下ろして喰らいつこうとする。




「……イオン様の悪ふざけに、一々構うゆとりもありませぬ故。お気に障られましたか」

――可愛くないね、ヴァン」

「貴公にこそその言葉、お返ししよう」



 冷たい手。獰猛な指。利用者は私。喰うのも私であるべきだったもの、を。
イオンは首に突き立てた爪の残り跡に、傷跡にまたその冷え切った手を、すべてを奪い去るためのように触れてくる。

 ライオンは、そのときだけ、酷く幸せそうに笑う。



「それじゃ、僕の悪ふざけできみに噛み付いても、構わない?」
























ど う し て も 人 を 笑 わ せ る こ と の で き な か っ た ピ エ ロ







 操られて踊るだけの道化が嫌なら、いっそのこと命を絶てばいい。

 思いつきは何度目のものだったか。ふと、窓から飛び降りてみようか、という気になった。導師に成り立ての頃は一時の衝動によく突き動かされ、その度に実行に移し、―――何一つ変わり映えしない世界というものを、確かめるのみに終わっていた。

 預言、預言、預言、馬鹿の一つ覚え。退屈しのぎには、群集の前で譜石を叩き潰してやれたらどれだけ爽快か、を仮定して楽しむぐらいが関の山だった。飽き性という程でもない筈なのにこの色のない毎日、まぐわって延々地獄を這うような人間の未来を何故望まなければならないのか。
 本当のところどうでもよかった。もうじき僕は死ぬのだから、怖れよりも先に、自分が何も残らない終焉がつまらなかっただけ。




―――ねえ、ヴァン。きみはこれまでに何度死んだ?」





 身を乗り出していた窓枠から身体を戻せば、先程までの強烈な落下への欲求は急速に遠のいた。別に呑まれてしまっても構わなかったのだけれど、騒ぎになるのは面倒だし第一落ちても死ねないだろうから意味はなかった。
 其処に居てよと言えば、ヴァンという男は常に従う。揺るがずにいる為に犠牲にし続けているものを知っているのに、何でもないことのようにやり過ごす振りをしている彼は、真実遊び甲斐のある相手だ。何でもないような質問にも、極めて直ぐに回答する。


 そして振り向くことなく問うたことを、ヴァンは寸分違わず理解していた。……そう、思った。


 諦念を水に浸して、薄っぺらな影を纏って、無表情は微かな色を覗かせる。動揺でなく、嫌悪でない、それは彼にしては珍しい反応とも言えた。
 誰かを思い出しているのか、行き先に確信を得ているのか、けれど紡ぎだされるのはやはり否定だ。自身の迷いさえも断つように、きっぱりと響く。



―――もう、記憶にありません」



 預言を変えるために死のうとしたのか、預言の変わらない未来に絶望して死のうとしたのか、そのどちらにせよヴァンにはもう過去だ、と言う。死にたがりの癖に、生きる理由を見つけてしまうなんて難儀なことをする。思わず笑ってしまった。




「ヴァンデスデルカ、僕はもうすぐ死ぬよ」


―――それに、知ってるんだよ、そんなことはね)






 時折考えている。預言が齎す焉日を思い浮かべるたび、考えていた。


きみは既に預言を覆す、大義名分のもとに己の死を試せない。
世界中ひっくるめて無様に狂っている人間、星の道に沿って並んでおどけ出す。死に後悔なんて要らないしするつもりもなかったけれど、一つだけ。そんな馬鹿騒ぎに揉まれて星の記憶の果てを見ることが叶ったら、もしかしたら僕でも、馬鹿笑いするようなきみにお眼にかかれたのか。





一度くらいなら、いつも仏頂面のきみの歪んだ笑みでも拝めればよかったなんて、所詮ないものねだりだ。