激しい雨だった。
 水が肌打つ感触に眼を閉ざす。天を仰いだきりそのまま、濡れて冷える身を晒して立ち尽くす。水をひたすら無防備に浴びた身体は、不快さよりも静寂にひとりきりの空虚な錯覚を呼び起こした。凍りつく爪の端から、雨の透明さに侵されて死人になってゆく。
 
(誰も居ない世界に己一人、それはどれほどの孤独だろうかと)
――いつかに男が言っていた台詞を、思い出した)





 水溜りを踏む何者かの足音を捕まえて、ガイはうっすらと瞼を開かした。光が視界に戻る。煙る前景に立つ男は、流水に重ね合わせたように穏やかな言葉遣いをした。昔の、ままだ。

「こんな処で、何をしておられるのですか」
「お前を待ってたんだ。ヴァンデスデルカ」

 予想に違わず溜息が落とされる。ヴァンは目前に立つと、背を僅かに屈め、ガイの濡れ髪を一房掬い上げた。雨雲に覆われた空の下では、薄暗さに金色もくすんで映る。

「場を考えては如何か。……このように雨曝しでは、風邪を引くでしょう」
「それを言うならお前も、だろ」

 疾うに濡れ鼠は自分も彼も同じだ。指摘すると、ヴァンは苦笑いをする。髪から滴る水滴は如何ともしがたい。前髪は濡れて額に張り付いているし、それは後ろ髪を結わえたままのヴァンも同様だ。
 幼い頃、雨が上がった後には、水遊びに外へと飛び出した日のことが懐かしく思い出された。虹が空に架かり、露が草葉を光らせて――梅雨にさえ美しい彼の地。
 かつて崩落前、マルクトの岸からはフェレス諸島含めホド島の姿がくっきりと見えた。現在、荒れ濁る海の激流の先にもはや、故郷の片鱗は見られない。十年以上前、絶望の極致に魔界へ沈んだ子がいたことを、ガイは先日初めて耳にした。彼と数年共に在りながらにして、一切を聞かされてはいなかったことを今更ながらに。

「一つ、どうしても訊こうと思ってたことがあってさ。答えてくれるか」
「私に御答え出来る問いであれば」
――どうして、崩落の真実を語らなかった?」

 きっとこれが最後になると誰に言われるまでもなく知っていたから、ガイは可能な限りガイラルディアであろうとした。刃を突きつけ合う最後の刻に、剣先を惑わせない為に、決戦の場に立つのはガイ・セシルであらねばならないと、分かっていたから。
 ヴァンは静穏に微笑んだ。
 ヴァンの微笑はガイに呼吸することの、謂れのない息苦しさを与えた。水に呑まれた世界に溺れている魚のような人間。疼くそれはもう、幸せだった人魚が仲間のいる水底には還れない痛みだ。

「ガイラルディアさま、生者に死者の言葉が果たして届きましょうか」
 ヴァンの腕が背に回り、ゆっくりと抱き寄せられる。濡れそぼった身体同士が触れ合って、肌と肌の間に温い熱を湛えた。降り注ぐ水に身を浸し、ガイの沈黙に被せたヴァンの声が響く。

「ヴァンデスデルカは一度、死にました。あの日ホドで、超振動を発動させた日に」
「だから――
「私が真相を明かしたところで、それは死人の戯言。……生きておられる貴方には、分かりますまい」
 理解する必要も無いと、ヴァンは言う。ガイはヴァンの衣服を掴み、縋るようにその眼差しを捧げた。絡み合った感情の糸に滅茶苦茶にされた不甲斐ない心臓を、握りつぶしてしまいたかった。

 家族を亡くし、戦に燃え尽きた主君の館を前にし。ひとりきりで、己の世界を消滅させることを強制されたこども。
 何故誰も助けてやれなかったのか。何故誰も彼の闇より深い絶望に気付いてやれなかったのか。
ガイはヴァンの腕の中で、ただ、強くヴァンを抱き締め返した。告げるべきことは数多あったというのに、肝心なときにこの口は使い物にならない。指先に篭めた祈りの数、お前が幸せになる為に生きていてくれたならと、ガイは想った。

 何が間違っていた、どんな答えを提示してももう、結末は変わらないというのに!


――お前は此処に、生きてるじゃないか)


 此処にあるあたたかさは、その証の筈なのに。
泣きたい思いで抱きしめる。変わらぬ時を望んでも秒針が回るように、日差しの地で人魚が泡になるように、また時を経てこの雨も止むだろう。

 
溺れていたいのか、引き上げられたいのか。
 どちらを択ぶにせよ、水の無い地に生きていく自分と生きられないヴァンデスデルカのことを、ガイは馬鹿だと、思った。




人 魚 の 骸 に 雨 は 降 る