ぬるま湯に、針で縫われた剥き出しの傷を浸して、わざわざ痛みを感じに行っているらしい馬鹿がいた。
「きみってマゾの気でもあったっけ」
投げ掛けた言葉が反響をして、放つ口腔の中にまで舞い戻ってくる。立ち上る湯気に吹き付けられた眼球が熱い。忌々しく思いながらイオンは濡れたタイルの上を布靴のまま歩いた。
開放された湯殿は、主席総長の身を慮った兵達が気を遣い、男、ヴァン一人が占有する形になっていた。一気に数十人を収容して余る大浴場は、今はがらんと物寂しい。
身を浸し、亜麻色の髪を下ろした男の、驚きを露にした眼がやがて平静へと回帰する、その「慣れ」が気に入らない。イオンは思った。何から何まで、今日のこの男は奇妙だった。
「その様な意識はありませんが」
皮肉げに結んだ唇が、少量の苦痛さえ覆い隠して、イオンの余裕の無さを笑っている。
「――血で汚れた身くらいは、清めようと思いまして」
暴動平定に駆り出された騎士団の指揮にあたっていた総長殿が、敵の譜術に被弾し負傷したエピソードは尾鰭を付けながらも着実に流布していた。表に顔を出していなかったイオンにもすぐに伝わったくらいで、その騒ぎの大きさを見越していないヴァンではなかったろうに。
ヴァンはイオンに、報告を寄越さなかったのだ。普段ならば有り得ない、挑発でもしてみせるような振る舞いで無視を敢行した。それが、イオンには気に入らない。――だからといって、喚き立てるような執心に焦がれている訳もないけれど。
「……医師が真っ青になって、止めに入って来なきゃいいね」
湯船に近づき腰を屈める。低い位置にあるヴァンの顔、うっすらと細められた瞳が鏡面となって己の映るのを確かめる。溢れた湯が袖を湿らせるが、今更だ。先程から煙に巻かれて全身が重い。
傍らにて、顎に手をやり、くいと面を上向かせる。きみの傷口を、爪を立てて抉ろうか。押し留めた精神を引き摺り出せるなら臓物を共にしても構いやしない。ヴァンは湯に沈めた背の傷跡を見せようとはしなかったので、イオンはひどく加虐趣味を望みたくなった。そういう嗜好を元より持っていたなら、きっと、もっと楽に彼の肉を食らえただろう。
「傷――兵卒を庇って、だって?討伐の名誉の負傷だって、評判は上々みたいだね」
「ただの散漫です。恥じるべきものでしょう」
青の双眸が冷めてイオンを見る。物欲しくなるのは、その冷たさがイオンには心地いいからだ。その冷たさが煮え湯を注がれて濁る瞬間が、たまらなく好きだからだ。けれど何故だか、ヴァンのその落ち着きからは酷い死の臭いがした。投げ遣りのような、疲れ果てたような、そういう荒さだった。
「治癒術を施されても癒え切らない傷……わざわざ痛がりに来たのは、そのまま死ぬためじゃないのかい」
「いいえ。痛みに、生を実感するもの。――違いますか」
イオンの手首に視線を注ぐ男の神経をイオンは疑う。これも挑発だ、らしくないことこの上ないと不機嫌が怒りに取って代わる前に、無意識下に平静が保たれた。こんなにおかしいヴァンに怒りを覚えても仕方がない。いつものヴァンであれば、こんな無粋で直接的なやり方は選ばない。イオンは絹地で隠した手首の傷が疼かないように、そっと指を戻す。リストカットの跡は今よりずっと幼い頃のものだった。
「――ねえ、ヴァンデスデルカ。僕はサディストじゃないから、きみの望む通りの傷つけ方はしてあげないよ」
きみがいくら僕を誘い傷つけ、挑発しようと目論んでも。
腕を首に回して、悪夢を吹き込む夢魔のように囁く。
それがイオンの愛し方であって、同時に嫌悪の意思表示なのだ。噛み締めて引き裂いて頬ずりをする、獣は獣らしくあらなければ間違い。馴れ合いだなんて最初から埋めてしまえばいい。
何があったのか知らないが、ヴァンは待っているのだろう。イオンが憤って、ヴァンに手を出すのをヴァンは待っている。男は食べる獣でなく食べられる餌になりたいのだ。本当は自分こそ肉食の獣のくせに、同属の獣に食い荒らされて終わりたいのだ。
ヴァンは片眉を上げた。先んじていたというヴァンの優位を崩せたらしいことを見て取って、イオンは僅かに機嫌を直し、刻んだ微笑を深めた。
「きみはマゾヒストらしいから、それに準じた対応はしてあげてもいいけど」
「それは、それは」
肩を竦めた男の髪を掴みあげ、強引に後ろに撫で付けてやると、濡れ髪の狭間から神妙なヴァンの表情が露になり、演技を放棄したような呟きが漏れた。
熱湯の空気を軽く吸った所為なのか、ただでさえ篭った湯室がますます暑苦しくなる。酸欠から来る、酩酊状態のような余韻。天国か地獄か、どちらかに漂ってもこんな心地がするだろうかと思って、イオンはその想像に笑った。
順序が逆だ。そう、まずは死ぬところから始めなくては。まずはイオンが死んで、それからヴァンが死ぬ。
肌を石鹸で泡立てて、それから溺死させてしまうのもいいな。彼が茹って浮かぶだけのものになったら、丁寧に愛撫を重ねて額に一度口付けして、それから海に捨ててしまえばいいのだ。「イオン」は死んだら速やかに灰に焼かれ埋葬される。死に場所は違う方がいいだろう。
死んでまできみの鬱々しい顔を見ていなくちゃいけないなんてごめんだしね。そんなことをつらつらと話したら、ヴァンは口元を弛めて、噴出すように喉を震わせた。珍しい笑い声だった。
かさついた手が濡れていた。
「どうぞお手柔らかに、イオン様」
死ねない死にたがりの、ただの悪足掻きの一幕に、その一言は幕引きをした。
屍を晒そうと、冷めたままであろう男の幸せそうな微笑みを、イオンは初めて見た。
血が湯に滲み出て赤く染まっても、喰らい合いながら共喰いに終わっても、愚か者の墓には骨一つ埋まらない。
お互いの牙にかかって綺麗に死ぬなら、それが一番美しい終わり方なのだろう。
(イオンもヴァンもそれを選ばなかった、これは、それだけの話だった。)