「―――ヴァン、なの―――?」
ことばすらなくして、ただ立ち尽くしたあの日。
呆然としていた少年の面持ちが、どんなふうに感情を明かせばいいのか分からない、といったようにくしゃりと歪んで。夢ではないのかと、確かめるようにおずおずと伸ばされた手を、不安がらせないようにとヴァンは強く握った。金髪はもとのまま美しかったが、屋敷生活での苦労を偲ばせる手はなめらかさを削ぎ、あかぎれで痛ましい。
既に失くしたと思っていた主君との、……偶然としか言い様の無い再会。見舞われたのは軽い眩暈。酷い、誰かが操ったとしか思えないようなこのタイミングに打ちひしがれる。
此の世には滅びしかないと妄信するに陥る以前であったなら、少年との再会によって変化を及ぼされたこともあったかもしれない。預言を覆そうと足掻いた五年の月日は、渾身を嘲笑うかのように、何一つ、今を変えることはなかった。累々と積もり山となった屍、膨れ上がる無力感と憎悪。健全な生涯を預言という毒に歪められ、失意のうちに死んだ人間達が、繁栄の名のもとに省みられることもない世界。
預言を知らしめられてから、どうにか世界を変革できないかという試み全ては徒労に終わり。自我の限界はとうに突破し、発狂寸前にまで追い詰められた精神で、縋りついたたった一つの光明、フォミクリー技術。もうこれしかないと望んだ矢先に、まさか、あの幼子の生を知ることになろうとは。
(……どのみちもう、何もかもが、遅い……)
此の世を文字通り造り替えようと決めたそのときにはもう、ホドにいたころのヴァンデスデルカは何処にもいなかった。オリジナルの消滅に総てを賭けることを決意したヴァンは、今更、あのヴァンデスデルカには戻れない。
―――その末に、例え待つのが破滅でも。
子どもの小さな手を取って、忠義の礼をとり、跪いて口づけた。驚いたように瞬く子どもに微笑んでみせる。こんな風に想っていられるのは今の内だけかもしれないという、確信があった。破壊するうちに、消し飛ばしてゆくうちに、自分は己の心も押し潰していつか、感情そのものを失うかもしれない。
せめて、自身が亡くしたヴァンデスデルカの想いだけは手渡してしまえるように。ひとつだけ、欲した。
「ヴァンデスデルカ?」
少年の声は光のように優しく、悲しい。そっと手を離すと、今度は抱き締めた。手放すことを覚悟しながら、やんわりと、抱き締めた。
攻性譜術によって焼かれた右足。ガイに斬り付けられ、たたらを踏んだ先にルークによって腹を深く貫いた剣。熱が一気に溢れ出し、押さえ込む間もなく胸より下を赤く濡らした。
蔑み続けたレプリカに殺される。
余りに重なる無知さ加減に、自分で生み出しておきながらも脳ごと灼くような殺意を押し留められず、罵倒してきた存在に奪われる。死したところで、また再生を図ろうとする預言のこと、何れ人類も滅び消えるだろう。見え透いたラストを前に、吐き出たのは哄笑だった。
「失敗作に……倒されるとはな……!」
突き立てた剣を置き去りに、じりじりと退がる。――魔界に続く、もう昇ることの敵わない深淵への境目に、足を乗せた。血を喪いすぎた半身は、もうほとんど感覚がない。
一同の視線が向く。妹の平静を装いながら思い詰めた瞳に、レプリカの睨みながら何処か泣きそうな必死さを湛えた瞳に、浮かんだ言葉は少なかった。
正しいと信じた、これが良かったのかという自問などもう心の何処にもない。そう在らなければ、レプリカ世界の創生などとても成し遂げられなかった。……それも今、不成功に終わる。何かが残されることもなく、歴史は綺麗に逆流を始めるのだろう。
貧血が過ぎ、姿勢を支えることも至難になる。指先も痺れを帯び始め、血の通わない冷たさを感じた。ぐるりと眺めた眼、眼、眼―――見納めの、人間達。
そんな中、無表情に此方を見ている一対の青にだけ、何かがふとゆらめくように蘇った。
心をいつだって通わせていた豊かな表情は形を無くし、じっと目線を固定して動かない。生気を欠如させた面は、却ってその心を雄弁に語っていた。小さなめぐし児ガイラルディア、大きくなったガイラルディア。
何故だか今になって、昔捧げた言葉を思い出した。
『私が御守り致します、ガイラルディア様』
あたりまえに笑顔を向けられた。純真にひたむきに夢を追い駆けることを赦された、遠い昔のこと。思い出すままに飲み込んだ記憶は巧く消化できず、篭った息のみを吐き捨てる。―――あれから、本当に変わったものが多すぎた。あのときのヴァンデスデルカはもう居ない。変わらない想いだけを離さないように握り締めて、違うものが必死に生きてきただけだった。
(………貴方を護りたかった私を、)
言葉は続かない。声にもならない。
ヴァンは笑った。勝ち取るための闘いさえ、あの日捧げた想いさえ、踊らされただけで終わった茶番に過ぎなかったのかもしれぬ、と。掌で廻っていただけの存在が世界を破ろうとすれば、粛清を受ける。だとしたら、自分は何だったというのだろう。
腹の底から低く笑いながら、狂人のように笑いながら床を蹴る。つま先から離れ、背後から浮遊感が身を包み、視界からは彼らの姿が消えた。
貴方を。 見越した眼に重ねた、あの愛する青は、焼き付けた瞼の裏に永遠に埋もれて。
翼を持たない者が、身の程知らずに太陽を望んだ代償。
もういい、疲れた。笑い声さえやがて聞こえなくなり、地殻の果てで疲弊したからだが最後に望んだのは小さな眠り。
変わらないものなどもう望まない。乖離してゆく身をそのままに、伸ばした手は空を切った。