ヴァン、ピティが動かないよ。
小さな子がそう泣きながら縋り付いて来たとき、ヴァンデスデルカはああやはりと、静かな無念を胸に抱いた。屋敷裏の庭、いつも木陰に蹲っている白い毛並みに黒い斑点の、愛らしい野良猫の姿を思い浮かべる。
兆候はあった。臆病と言われがちではあるが心優しい主君であるガイラルディアが、雨に打たれていた猫に出会い、ピティと名付けて可愛がり始めた頃から既に。ピティは他の猫とは違い、俊敏には動けない身体だった。脚を悪くしていた上かなりの高齢で、身が衰えていたためだ。獣医に診せに行ったとき、もう寿命が近いこと、何時眠りについてもおかしくない状態だと宣告を受けていた。
事実をそのまま明かさなかったのは、ヴァンの弱さだった。ガイラルディアが落胆し、泣きじゃくる様を見たくはなかったのだ。――結局、先送りにしたというだけで、結果的には何ら変わりなかった。ガイラルディアが、泣いている。
腕を引かれるままにピティの傍へと連れて行かれる。気持ちよく晴れた、完璧無比な青空。何時も猫のくせに木陰を好んで眠る猫は、日溜りの中で動かなくなっていた。
屈みこんで、すっかり冷たくなってしまった息絶えた猫の亡骸を、ヴァンデスデルカはそっと撫でる。
臨終は、寒かったのだろうか。日差しに丸まった柔らかな毛のあと。……秋にかけた小麦のような金色の瞳は、瞼に隠れて見えなくなっていた。
「弔って、あげましょう。ガイラルディアさま」
「……とむらう?」
「土に埋めるんです。命が還るように」
ガイラルディアが、驚いたようにぴたりと動作を止める。その眼を溺れさせていた透明な水も一緒にとめて。
「ピティ、どうなっちゃったの」
「……死んで、しまったんです」
「しぬって、なに」
「それは……」
言い淀んで、それでも今先送りにしたのではまた同じことの繰り返しと、腹を括った。ガイラルディアに向き合って、その無垢で何も知らない白い魂を前にする。
「もう、目覚めないことです。ピティはもうごはんを食べることも、ガイラルディアさまに恋しそうに鳴くことも、草むらの中を走ることも、ない―――」
言いながら、思い出した。ピティを雨のなかで拾ったのはヴァンデスデルカも同じだった。母が近頃病がちで、動物を傍に置くのは禁じられていたから、小さな主君と養育係の目を盗んでは世話に訪れた。食事を食べきらずにこっそり庭に持ち込むなど、以前のヴァンデスデルカならば有り得なかったことだ。
猫にしては尻尾が少し短くて、その分ふさふさと何時までも触れていたくなるような手触りだった。ミルクをやったら、にゃあ、と鳴いて。時折満足げに喉を鳴らして……。
話しながら舌が縺れた。おかしい、こんなこと。
不意打ちに、襲い来る胸の痛みと戦う間、ガイラルディアがその幼い手を伸ばして頬に触れた。
「ヴァン、なかないで」
それは余りに自然なことばだったので、咄嗟に返す声が出なかった。ガイラルディアの一言で、ヴァンデスデルカは自分も泣いていたことを知った。
血の温もりと同じにあたたかな、涙だった。すんなりと心の臓に落ち込んだ子どもの慰め。
ガイラルディアの泣き腫らした涙のあとに、ヴァンデスデルカの涙も重なって零れた。
ああ、私は、このこが好きだったんだ。
だから寂しい。
ヴァンデスデルカは当たり前のことを思う。小さな手のなかに、失くなった空っぽの躯がただ悲しかった。
「ルーク、ほら、泣くな」
少年は主人にあたる赤毛の子を、懸命にあやしていた。ルークはぱたりと動かなくなってしまった鳥を前に、訳も分からずいつまでも泣き喚いている。
数日前に部屋に迷い込んだ傷ついた鳥を、ルークは幼いながらに精一杯世話していたらしい。だが翼への損傷が深く、飛べない鳥が命を落とすまでにそう時間はかからなかった。くたりと折れたような羽に痛々しい包帯の跡。ヴァンは物言わず背後に控え、鳥の亡骸と、ガイとルークのやり取りを眺めていた。
泣くな、とガイが伸ばした手は暴れるルークの涙で濡れた左頬へ。拭うように触れて、それから顔全体を包み込む。
変わらないものだと、ヴァンは思った。誰よりも先に人を癒すことを知っていた金色の子、仇と定めた復讐相手の息子にさえも。……それは、彼すら知らぬレプリカではあったけれど。
「なあルーク。この鳥を中庭に埋めてやろう、弔うんだ。…とむらうってのは、鳥の命がこのオールドラントに還ってまた新しい命を貰えるように、祈ることだ。土になっていつか根を生やして、この鳥は草になるかもしれない。草になって、日光の恵みを浴びて、今度は大気を潤すんだ。少しずつ少しずつ、そうやって命が巡る」
お前も俺も、そうやっていつか世界を巡るんだ。凄いだろう?
泣くルークをしっかり抱き締めてのガイの微笑を、ヴァンはその眼に焼き付ける思いで見つめた。あのときから今まで、そしてこれからも。どれだけの者達を、この光のような子どもは救いあげて行くのだろう。
ヴァンは己の思考の帰結に思い至って、失笑する。
オリジナルの人の種そのものを滅ぼそうと願う人間の、考えることではなかったのは確かだった。ルークに語りかけ続けているガイラルディアに、ヴァンは音を立てぬよう配慮しながら踵を返した。二人の声が聞こえなくなる位置まで歩を進めて、影に寄り添う形でヴァンは眼を瞑る。
命の儚いこと、その脆さまで知り尽くして故にガイラルディアは生を望み、護り抜くことに迷わない資質の持ち主だ。不毛なのはどちらか、訊ねられるまでもなかった。それでもヴァンが抗うのは、何もかも喪失した後に心を突き抜けた無情を、二度と誰かに与えたくはなかったからだ。
―――ガイは何があろうと命を見捨てない、それを抱き込み愛し失った過去があるからこそ。
猫の鳴き声は絶えて、鳥は羽を散らしもう動かないとしても。僅かに羽ばたき足らず尽きた命をも、ガイラルディアが愛しむであろうことをヴァンはよく知っている。
ヴァンは閉ざしていた視界を再び解いて、ふと目線を逸らした。青い光の中に、浮かび上がる子どもがふたり。
なかないで。
なかないで。
なかないで。
もう泣きません、ガイラルディアさま。
鮮明な残像に、ヴァンは呼吸すらもその瞬間だけは忘れて、瞬いた。
幼子の幻は、それ自体を夢と現すよう掻き消える。呆気ない一瞬。それからは幾度見直しても、窓の向こうに見えるは深青ばかり。
疲れているのかもしれぬと、ヴァンはゆるく肩を鳴らした。……酷い、白昼夢だ。
窓際まで寄り、幻の余韻を消し去ろうとするかのように硝子戸を開く。
金の音がして、それから間もなく外気に直に触れる。温い風が流れ込み、ヴァンの髪を僅かにそよがせた。この時節には引っ切り無しに見える筈の渡り鳥の姿は、今の間には見当たらないようだった。生きた鳥達が遥か遠方に目指す到達点、命が燃え尽きるまでに走り抜けてゆく道の先を、ヴァンは視界のうちに想像する。
――かの鳥らと同じくに。この脚が目的地に行き着くまでに折れ、はためく終着の旗を抜き取らぬままに息絶えたとしたら。ルークをあやすときにしていたようにガイラルディアはヴァンを抱き留め、また同じように微笑うだろうか。
ヴァンは回想に眉間を歪ませる。なかないで、耳の裏にこべりつく子どもの聲。
(弔われるならば、貴方の手でが善いと、愚かな事も考えた)
幻のこどもたちは、長い間あの猫を抱えてじっと涙を流し続けているのかもしれない。
何れにせよそれは、遠く、昔の話。
ヴァンは苦く微笑って、乾き切って久しい眦に、かつて亡骸を撫ぜたように、触れた。