議会も滞りなく終了し持て余した時間、ピオニーは独りで珈琲を飲んだ。

 水面が鏡のように光を弾く。天井まで届く硝子張りの、マルクトの全景を展望出来るテラス。陶器のカップは、キムラスカから輸入した貴重品だ。全てが思った以上にさっくりと片付いて、キムラスカ・ランバルディア王国と正式な友好条約の調印式が行われた後は、さしたる事件もなく平和なものだった。欠伸のひとつでもして、胡坐をかいて怠けていることが許される。

 取り出したスプーンで、濃い色の液体に注ぐ砂糖は一杯。苦味が深い方を好んでいた青年を見て、一度ノンシュガーを真似してはみたが、見事に咽てしまってそれ以来は標準だ。あの男はとても三十路前には見えない実年齢以上の顔だったが、どうやら嗜好も同じらしい。べとつく甘さよりも渋みのある乾いたものを彼は選んだ。
 単純に柔らかなものは壊れやすいから、自ら遠ざけていただけかもしれない。うつくしいものを、青年は良く儚いものに例えた。甘いものも同義だったろうか。






「お前、胃が痛くならないか?」
――慣れると、ストレートでなくては落ち着かないもので……」


 彼は姿勢を崩さずに、湯気の立つカップを片手によくテラスの外を見ていた。空と、マルクトの青い噴水、滝の透き通った光を、良く賞賛していた男。初めてダアトの使節として赴いた際にも――その時の彼はまだ髭もない小奇麗な少年だったが、口上には必ずその絶景への賛美が添えられていた。
 男の眼は海と空を見つめ続けたが故に、その色を宿したのかもしれない、とピオニーは時折思った。沈殿していた憎悪もまた、彼が眼にした世界への失望を表しているように思えてならなかった。世界がただ綺麗なものでないことぐらい、大人になれば誰だって知る。けれどその落差を突きつけられても、そっと抱き締めてくれる腕があれば、語り合う言葉があれば、人は生きていけるものだ。
 生きていけないのは、純粋過ぎるからではないだろうか。真水に魚は住めないというが、真水にしか住めない魚が一匹、此の世にいたとしても可笑しくはない。 

 訪問の度に誘うティータイムも着実に回数を重ねて、傍目からは国益にも作用する好ましい交友、と見なされていた関係。青年の素性、真の名、目指すもの、凡そを把握して、ピオニーは何かを特別に言うことはなかった。やめろ、とただ制止してみせることは簡単だったが、それで青年の何が変わる筈もないことを、理解していた。

 彼は終わりたがって、祈ろうとして失敗して、赦せないまま、ゆるゆると死んでいた。
木乃伊取りが木乃伊にならないように、忠告を垂れたのは有能だが性格の悪い懐刀だ。誰の心配をしてるつもりだと、そのときは笑って返した。誰も連れて行くつもりがない者に、木乃伊にされるわけがない。望んでも無理だし、ピオニー・ウパラ・マルクト九世は、間違ってもそれを望むような男ではなかった。

 ……だから、それは、極当たり前の成り行き。


 

 向かい合って、それぞれが好みの味に手を加えた珈琲を飲んでいた。彼はいつもの通りミルク壷にも手をつけず、ストレートのまま一口啜り、ソーサーに置く。空は綺麗に晴れていて、水の音が室内を穏やかに包む、ありふれた春先の午後。

「……終わりに、しましょうか」


 殉教者のような微笑は、諦念以上に安堵しているようにも思えた。何を見、何を欲し、何が得られたが故の安堵かは分からない。小鳥の鳴く声に耳を澄ませるときのように、花を撫で付けるときのように。
 いつか言っていた。眠らないための飲み物だから愛するのだ、と。
 

――そうだな」



 香ばしい挽かれた豆の香りは、既にそんな水に呑まれて、僅かに鼻腔に渡る。その日の珈琲は甘いような苦いような、舌を痺れさせる味がした。
 夢の終わりだ。珈琲のひとときは、誰にとっても、ひどく短かった。